子どもデボーション
4月 21日〜 4月 27日

 

チャレンジ・ダ・バイブル
聖書は神様からのラブレターだと言われます。聖書には「私はあなたを愛しているよ」という神様のメッセージがあふれているからです。大好きな人からのラブレターってうれしいよね。何度も読み返すでしょ。めんどくさくないよね。聖書も同じだよ。


四月二一日(日)マタイ二十1〜16
 この主人は五時から働いた人にもすごくやさしかった。五時から働いた人には本当は一デナリもらう資格はない。でも一デナリもらった。一デナリないとその日の生活に困ってしまうことを主人は知っていたんだね。天国も入る資格のない人が神様の愛と恵みによって入れていただくところなんだよ。


四月二二日(月)マタイ二十17〜28
 弟子たちはみんな他のだれよりも偉くなりたいと思っていました。みんなはどうだろう? 偉くなるのはすばらしいこと。でも「偉い」ということはえばることではなくて、みんなのしもべになって、みんなのためにいろいろなことを考えてあげる、してあげることなんだね。


四月二三日(火)マタイ二十29〜34
 二人の目の見えない人たちは必死でイエス様に助けを求めた。だまれ、やめろとどんなに言ってしかってもやめなかった。イエス様に助けていただかなかったら、他に自分をたすけて下さる方はいないと、そう思っていたんだね。みんなを助けることができるのは、助けてくれるのは一体だれだろう。


四月二四日(水)マタイ二一1〜11
 イエス様は王様や強い将軍がするようにかっこいい馬に乗っては行かなかった。平和をもたらすお方として、子ろばに乗られた。「主がお入り用なのです」と子ろばを呼んでくださった主は、あなたも呼んでおられます。私のお手伝いをしてほしい。みんなはどうお答えすればいいでしょう。


四月二五日(木)マタイ二一12〜17
 イエス様が宮(神様を礼拝する神殿)に入られるとそこで商売をしてお金もうけのことしか考えていないような人たちが大勢いた。イエス様は怒って、「ここは私の家、祈りの家」と叫び、彼らを追い出された。教会は今でも祈りの家。神様にどんなことでもおいのりしようね。


四月二六日(金)マタイ二一18〜22
 イエス様はいちじくにいじわるをされたわけではない。枯れた実のないいちじくは、神様の言葉を聞きながら神が求めておられるような実を結ばないイスラエルの人々へのけい告でもあった。それともう一つ。信じて祈る祈りは必ず聞かれる。信じて祈っていこう。神様は祈りを聞いてくださる。


四月二七日(土)マタイ二一23〜27
 祭司長や長老たちはイエス様が大きらい。イエス様と一緒にいると自分の悪い心が見えてきてしまうからだ。彼らは何とかイエス様に文句をつけたかった。「何で、だれの許可でこんなことをしてるんだ」。でも彼らはみんなの目もこわかった。人の目を気にして自分の思っていることを言えなかった。