子どもデボーション
6月 23日〜 6月 29日

 

チャレンジ・ダ・バイブル
 聖書には何が書いてありますか。聖書はページがたくさんあって、むずかしいですね。聖書にはイエス様のことが書いてあるのです。旧約も新約も「イエス」という言葉が出てこないところもイエス様とその救いについて書いてあるんだね。


六月二三日(日)ルカ一一1〜12
 友人にパンをかりに行った人は必死で求めました。夜でした。めいわくだと言われたのになぜそんなに必死になったのでしょうか。それは自分がどうしてもパンが必要だったからであり、その自分にないパンを友人が持っていることを知っていたからです。神様は求め続ける人に必ず与えてくださいます。


六月二四日(月)ルカ一八1〜8
 ここにも必死で願い続けた人が出てきます。神様は私たちの必死さに心を動かされるのではありません。けれどもあきらめないで求め続けるという姿勢の中に、神様に対する信頼を見てくださるのです。神様なんか答えてくれないよ、と思っていたら必死で求めないでしょう?


六月二五日(火)ルカ一八9〜14
 ここには二人の人の対照的な祈りが出てきます。パリサイ人は「自分はなんてえらいんでしょう」と祈りました。それに対して取税人は「神様は私は罪人です。どうぞおゆるしください」と祈りました。神様は自分の罪を悔い改めて、へりくだって祈る祈りに答えてくださいます。


六月二六日(水)ルカ一八15〜17
 弟子たちは子どもなんか関係ないと思っていました。けれどもイエス様は神の国はこんな子どもたちの国だとおっしゃいました。小さな子どもは疑うことをしません。言われた通り、そのまま信じる小さな子どもたちをイエス様はとても喜んでくださいます。イエス様はあなたのことも大好きです。


六月二七日(木)ルカ一八18〜34
 イエス様のところにやってきたのは小さいころからまじめに生きてきた若い役人でした。けれどもイエス様はあなたには足りないことがあるとおっしゃいました。けれどもこの人はイエス様の言われた言葉を受け入れることができませんでした。何でもできる神様よりお金の方が大事だったのです。


六月二八日(金)ルカ一八35〜43
 この目の見えなかった二人の人たちはイエス様に必死で求め、願いました。みんながだまらせようとしてもさけび続けました。そしてイエス様はその人たちの目を見えるようにして下さいました。イエス様以外のだれも自分たちを直してくれない。でもイエス様にはできると信じていたからです。


六月二九日(土)ローマ八26〜28
 私たちが祈る祈りはもしかしたらめちゃくちゃかもしれません。ちゃんとしていないかもしれません。私たちは一番祈りが必要な時に、何と祈ったらいいか分からないものです。けれども聖霊の神様はそんな弱い私たちを助けて、私たちの祈りを天にとどくようにしてくださるのです。