チャレンジ・ダ・バイブル
今週からしばらくアブラムという人の話を読んでいきます。アブラムは後で、神様からアブラハムという名前をもらうのですが、聖書の中でもとても大切な人物です。イエス様もやがてアブラハムのしそんの一人としてお生まれになったほどです(マタイ一1)。
この人の人生の物語を読んでいくと、神様を信じるとはどういうことなのかということが少しずつ分かってくるはずです。さあ、始めましょう。
八月十八日(日)創世記十二1〜4
「時に」とはアブラムがウルからハランにうつり、そのハランで自分のお父さんのテラが死んでしまった、そんな時でした。アブラムはもう七五さいになっていました。アブラムにとってはとても心細い時だったでしょう。自分のそだった町ウルからはすでに遠くはなれている。そして自分のお父さんも死んでしまう。でも神様はアブラムにここからもしんせきからもわかれて、自分の言うところに行けとおっしゃいました。どこだけはわかりません。しかし神様はしゅくふくのやくそくを与えて、アブラムをみちびかれました。
八月十九日(月)創世記十二5〜9
アブラムは神様に言われるままに旅を続けてカナンの地にやって来ます。そして神様はその地をアブラムのしそんに与えるとやくそくされました。けれども二つのもんだいがありました。アブラムには子どもがいなかったこと、そして、その地にはすでにカナン人が住んでいたということです。けれどもアブラムはそこで神様を礼拝しました。
八月二十日(火)創世記十二10〜20
アブラムはききんの時に、エジプトにのがれます。けれども、アブラムは自分がころされて、おくさんをとられてしまうかもしれないと心配しました。そこでアブラムはうそをつきます。そして、そのためにサライは大ピンチになります。けれども神様がアブラムとサライを守ってくださいました。
八月二一日(水)ヘブル十一8〜12
アブラムは行き先を知らずに出ていきました。そんなひっこしは聞いたことがありません。なぜアブラムはそんなことができたのでしょう。ヘブル人への手紙では「しんこうによって」と書かれています。神様のおっしゃるとおりにしていたらだいじょうぶとしんらいしていたからです。
八月二二日(木)詩篇二三篇
私たちが羊だとすれば、神様は羊かいのような方です。羊かいは羊のことを心配して、羊をおいしい草、きれいな水のあるところに連れて行ってくれます。神様も同じです。神様のおっしゃるとおりにしたがっていくと、神様は私たちをすばらしいところにみちびいてくださいます。
八月二三日(金)イザヤ三〇18〜26
神様は私たちがどうしたらいいか分からない時にも、私たちがしなければならないことを教えてくださいます。神様の声がちょくせつ耳に聞こえてくるわけではありません。神様は聖書のみ言葉を思い起こさせて、私たちが進む道を教えてくださるのです。神様についていく人はまい子になることはありません。
八月二四日(土)マルコ一16〜20
イエス様のおでしさんたちもイエス様に「ついて来なさい」と言われた時にすぐについていきました。どこにいくのか、何があるのか分からなかったでしょう。でもイエス様といっしょだったらだいじょうぶだと、きっと思ったにちがいありません。あなたもイエス様についていきませんか。