子どもデボーション
9月 15日〜 9月 21日

 

チャレンジ・ダ・バイブル
 今日は敬老(けいろう)の日です。お年よりの人たちにかんしゃし、大切にすることを忘れないことはとても大切です。アブラハムもサラもお年よりでした。みんなの家や教会にもお年よりがいますか。アブラハムのように百才くらいの人はどうでしょう。おじいさんやおばあさんがあなたのそばにいたら、いろいろなことをきいてごらんなさい。


九月十五日(日)創世記二二1〜24
 アブラハムにとってイサクはかわいいかわいい一人むすこでした。けれどもある日、神様はそのイサクをささげなさいとおっしゃいました。むかしの動物のささげものと同じように、ころして、火でやいてささげなさいというのです。「いやです」とも言えたでしょう。けれどもアブラハムは神様のおっしゃるとおりにしたがっていきます。まさにイサクをころそうとしたアブラハムに、神様は「もういい、あなたが私をおそれる者であることがよく分かった」とおっしゃいました。アブラハムは自分の一番大事なイサクも神様にささげようとしたからです。


九月十六日(月)創世記二三1〜20
 アブラハムのおくさんのサラがとうとう死んでしまいました。これはアブラハムにとっても、イサクにとってもとてもかなしいことでした。アブラハムはおはかを買って、サラをそこにほうむります生きている間に。アブラハムのものになったのはこのおはかの土地だけでした。アブラハムはこの地上では旅人だったのです。


九月十七日(火)ローマ十二1〜2
 あなたは神様に何をささげていますか。神様は私たちのけん金もよろこんでくださいますが、もっとよろこばれるのは私たちが神様に自分をささげること、神様のおっしゃることは何でもすること、神様のために生きることです。あなたは何のために生きるのですか。


九月十八日(水)ヘブル十一17〜19
 アブラハムはイサクを神様にささげても、神様はイサクを生き返らせることがおできになるとしんじていました。だからよろこんで神様にしたがうことができたのです。神様に力があることを知っている人はよろこんで神様にしたがうことができます。そして、しんじるとはしたがうことでもあるのです。


九月十九日(木)ミカ六6〜8
 ミカという人は神様の言葉を伝えるよげん者でした。ミカのいた時代、人々は神様をれいはいし、しんじていると言っていましたが、かげでは自分かってな生き方をしていました。たくさんけんきんをするかどうかではありません。神様はあなたがえばらないで、へりくだって、神様の声を聞き、神様と共に歩むことをよろこばれるのです。


九月二十日(金)ヨハネ三16
 「たまわった」というのは「ささげてくださった・プレゼントしてくださった」ということです。アブラハムは自分の一人むすこをささげようとしましたが、神様は私たちを愛して、そのひとり子のイエス様を、私たちをつみからすくうために十字架につけてくださったのです。


九月二一日(土)ローマ五1〜11
 神様は、私たちがりっぱでえらかったからあいしてくださったというのではありません。私たちがつみをおかし、神様にせをむけて生きていたのに、そんな私たちをあいして、キリストをあたえてくださったのです。私たちが神様のために生きるのは、まず神様が私たちをあいしてくださったからです。