チャレンジ・ダ・バイブル

 今週の月曜日は「敬老の日」だ。おじいちゃんやおばあちゃん、また年をとった人たちを大事にしようという日だ。おじいちゃんやおばあちゃんがいなかったら、みんなのお父さんやお母さんもいなかったし、みんなもいなかった。おじいちゃんたちが大事にお父さんたちを育て、お父さんたちが大切にみんなを育ててくれた。だからみんなは元気なんだ。
 それでは「敬う」とはどういうことだろう。どうすることがお年よりを大切にすることになるだろう。一つアイデアを出そう。みんなのおじいちゃんやおばあちゃん、または教会のお年よりの人たちに、みんなの写真をいっしょにして手紙を送ったらどうだろう。チャレンジしてみてほしい。


九月十四日(日)出エジプト十六1〜21
 イスラエルの人たちは今度は肉が食べたい、パンが食べたいと食べ物のことで文句を言い始めました。神様はうずらとマナをくださってイスラエルの人たちをやしなってくださいました。


九月十五日(月)出エジプト十六22〜36
 マナは毎日集めたのですが、六日目だけは二日分集めることになっていました。七日目は神様をれいはいするための日で、ほかのしごとはしないことになっていたからです。神様は何もないようなあらのでも、ちゃんと人々を守ってくださいました。


九月十六日(火)出エジプト十七1〜7
 しばらく行くと、イスラエルの人たちはまた水がないと言って文句を言い始めました。神様におねがいするのではなく不平を言ったのです。モーセが神様のおっしゃったとおりに岩をつえで打つと水がほとばしり出てきました。


九月十七日(水)マタイ六5〜8
 おいのりはおねがいばかりではいけません。神様は私たちになければならないものはちゃんと知っていてくださるからです。けれどもまた、神様はおいのりする前から知っているのだからおいのりしないというのも困ります。おいのりは人に見せびらかすものでもありません。大好きな神様とお話しすることなのです。


九月十八日(木)マタイ六25〜33
 イスラエルの人たちは食べる物が少なくなってきたと文句を言い、水がもうないぞといってはつぶやきました。けれども、神様は空の鳥を守り、野の花をさかせてくださるお方です。ちゃんとそれは用意していてくださいます。食べる物・飲む物のことよりももっと大切なものがあるのです。


九月十九日(金)ヨハネ六30〜35
 イスラエルの人たちは天からふってきたマナを食べました。イエス様はご自分のことを「わたしは命のパンである」とおっしゃいました。イスラエルの人たちがマナを食べて生きたように、私たちは命のパンであるイエス様を信じて生きるのです。


九月二十日(土)ヨハネ六47〜51
 イエス様は私たちをすくうために、十字架にかかって自分の命を私たちにあたえてくださいました。マナを食べてもやがては死にました。けれども命のパンであるイエスを信じる人はえいえんの命があたえられて、いつまでも生きるのです。