チャレンジ・ダ・バイブル

 聞かれないように感じられるおいのりについてもう少しお話ししましょう。先週もお話しましたが、神さまは聞いていないのではありません。けれども、神さまに深いお考えがあって、病気がなおらなかったり、起こってほしくないような悲しいことが、私たちの生きていく中で起きることがあります。
 悲しいこと・苦しいことはだれも起こってほしくはありません。けれども神さまは、そんなことを通して私たちをくんれんし、育てようとされることがあるのです。おいのりが聞かれなくても、それは神さまがむししておられるのではありません。かえってそれは神さまのあいのしるしなのです。


二月二二日(日) マルコ 六章30〜44節
 でしたちが帰ってきた時、イエスさまは湖の向こうがわのさびしい所に行って休もうとおっしゃいました。でもそこにもおおぜいの人が集まってきた時、イエスさまは人々を教え、心も体もゆたかにやしなってくださいました。


二月二三日(月) ピリピ 四章4〜7節
 まず、私たちは神さまにかんしゃしたいと思います。神さまがあたえてくださっているすばらしいものをかんしゃしましょう。そして神さまに何でもおいのりしましょう。神さまは私たちのもとめるお祈りを聞いてくださいます。


二月二四日(火) ルカ 十二章22〜34節
 神さまは私たちに何がひつようかを知っていてくださいます。命や体のことで心配するより、まず神さまの国に入ることを求めなさいとイエスさまは教えられました。それが何よりも大切なものだからです。


二月二五日(水) マルコ 六章45〜56節
 五千人の人たちと食事をした後で、イエスさまはでしたちを先に向こう岸に行かせました。ところがそこに大あらしが来ました。けれども、イエスさまは大あらしの海の上を歩いてでしたちに近づいて行かれました。でしたちはおどろきました。イエスさまがそこにおられるなんて信じられなかったのです。イエスさまは風も波もしずめてくださいました。


二月二六日(木) マルコ 七章1〜13節
 パリサイ人たちはまじめでした。よく聖書を読んでけんきゅうしていました。けれども、いつの間にか、神さまにたよるより、自分のまじめさをえばって、他の人を見下げるようになりました。神さまの言を自分勝手に変えてしまっていました。


二月二七日(金) マルコ 七章14〜23節
 パリサイ人たちは自分はきれいだけから外からよごれがつかないようにと考えました。でも心の中はどうなっているでしょうか。私たちの心の中からはきれいなものが出てくるでしょうか。それともきたないものが出てくるでしょうか。


二月二八日(土) マルコ 七章24〜30節
 イエスさまはでしたちとしずかでとくべつな時をすごそうとツロの方に行きました。そんなイエスさまの所に女の人が来ました。自分のむすめがあくまにとりつかれていたのです。この女の人は自分はイエスさまにどうしても助けてもらわないといけない、イエスさまならきっと助けてくださると信じていたのです。