チャレンジ・ダ・バイブル

 みんなの中にはほかの多くの人たちがしたことのないつらい、かなしいことがあった人もいるかもしれません。お母さんやお父さんが早く死んでしまった。りこんしている。学校の入学しけんにしっぱいした。学校でいじめられている。お父さんやお母さんがぼう力をする・・・そんな時に、ぜひ自分だけでなやんでいないで、教会の先生に話してほしい。
 教会の先生たちはみんなのためにおいのりしています。そして神さまは私たちが一人で生きていくのではなくて、みんなで、そして教会の中で生きていくようにと造ってくださったのです。


二月二九日(日) マルコ 七章31〜37節
 しゃべれないし、耳も聞こえない人がいて、イエスさまの所に連れられてきました。何も聞こえないってどんな気持ちがすると思いますか。イエスさまはこの人の耳を開いて聞こえるようにし、しゃべれるようにしてくださいました。あなたの心の耳は聞こえますか。イエスさまはあなたの心の耳も開いてくださいます。


三月一日(月) 詩篇 四十篇1〜17節
 旧約聖書の時代にはイスラエルの人たちはいけにえやそなえ物を神さまのところに持ってきました。けれどもいけにえの動物をささげればいいというのではなくて、大切なのは神さまの声をしっかりと聞き、その声にしたがうことです。「耳を開く」とは「神のものとされる」ということを意味していました。


三月二日(火) マルコ 八章1〜13節
 イエスさまの所に集まっていた人たちは三日間も食べないでイエスさまのお話を聞いていました。イエスさまはこの人たちの体のことも心配されて、七つのパンとさかなでみんなをやしなってくださいました。


三月三日(水) マルコ 八章14〜21節
 「パン種」とはイーストきんのことです。パンをふっくら作るためにはイーストきんを使います。これを使うとパンが大きくふくらみます。イエスさまはまちがった教えを心の中に入れているとそれが小さくてもふくらんでこなのかたまり全部が変わってしまうと注意されたのです。


三月四日(木) マルコ 八章22〜26節
 イエスさまは目の見えない人を見えるようにしてくださいました。見えるようになっても、ぼんやりしていたのがだんだん見つめているうちにはっきり見えるようになっていきました。私たちの心の目も神さまを見つめているとはっきり見えるようになっていきます。


三月五日(金) マルコ 八章27〜30節
 人々はイエスさまがすごい人だと思っていましたが、それだけでした。でもペテロはイエスさまがキリストだということが分かりました。「キリスト」とは旧約聖書にやくそくされていた救い主という意味です。あなたにとってはイエスさまはどんなお方ですか。


三月六日(土) マルコ 八章31〜38節
 ペテロは救い主は王さまになってローマをやっつけてくれる人と思っていました。だからイエスさまがみんなに捨てられ、ころされるなんてゆるせませんでした。でもイエスさまの十字架がなかったら、私たちのつみのゆるされる道はありません。