チャレンジ・ダ・バイブル
神さまは私たちのおいのりを聞いてくださいます。けれども、私たちのおいのりがいつも私たちの願い通りになるわけではありません。もし、いつでも私たちのおいのりがそのままかなえられるとしたら、私たちは神さまに何でも命令するようになり、神さまよりもえらいと考えるようになってしまうでしょう。 三月二八日(日) マルコ 十四章32〜42節 イエスさまは十字架にかかられる前の夜においのりしないではおれませんでした。しぬほどかなしみ、なやみ、おそれておられました。十字架につけられて神さまにすてられることのおそろしさをイエスさまは知っておられました。でもそれはみんな私たちの救いのためでした。 三月二九日(月) ヘブル 五章7〜10節 イエスさまははげしいさけびとなみだをもっていのられました。聖書はその祈りは聞き入れられたと言います。イエスさまの一番ねがっておられたことは、神さまのみこころがなり、私たちがすくわれることだったからです。 三月三十日(火) マルコ 十四章43〜52節 イエスさまはおいのりが終わると、何もおそれることなく進んで行かれました。ねてしまっていたでしたちはいざとなった時にみんなイエスさまを見捨ててにげていきました。だれも十字架についていくことはできませんでした。 三月三一日(水) マルコ 十四章53〜65節 イエスさまはさいばんにかけられました。「あなたは聖書にやくそくされた救い主キリストか」と言われた時に「私がそれだ」とイエスさまはおっしゃいました。でもみんなは信じないで、イエスはうそをついている、だから死刑だと言ったのでした。けれどもイエスの言葉を信じる人はすくわれます。 四月一日(木) マルコ 十四章66〜72節 ペテロはイエスさまに遠くからついて行きました。。けれどもあなたはイエスさまのなかまでしょと言われた時に、「知らない」と三度も言ってしまいました。あなたはイエスさまを信じていますとみんなの前で言えますか。 四月二日(金) マルコ 十五章1〜5節 ユダヤ人たちはイエスさまをローマのそうとくピラトの所に連れて行きました。死刑にするにはピラトの許可がいるからです。イエスさまが自分がわるくないということを話し始めたら、いくらでも言えることはあったでしょう。でもイエスさまはだまって神さまにまかせておられました。 四月三日(土) マルコ 十五章6〜15節 ピラトはイエスさまが何もわるいことをしていないことはわかっていました。けれども「バラバをゆるせ、イエスを十字架につけよ」というさけびを聞いた時に、自分で正しいと信じることをすることができませんでした。 |