チャレンジ・ダ・バイブル

 サムソンはそれまでだれにも負けない力持ちでした。どんな相手もちょちょいのちょいでやっつけることができました。でも、突然、力が出なくなってしまった時に、何を考えたでしょうか。
 かみの毛を切るか切らないかと言うことではありません。神様の言葉にしたがうかどうかということなのです。神様の言うことを聞かなかったサムソンは弱くなってしまったね。でも、これは神様の大きな恵みだったと思う。あ、自分はまちがってたんだと気づけたから。もし、神様の言うことに従わなくても強いままだったら、サムソンは天国に行けなかったかも知れないからね。


五月二三日(日)士師十六23〜31
 ペリシテ人たちは大ぜい集まって、うその神様をれいはいし、サムソンを笑い者にしました。サムソンには昔のおもかげはありません。みじめなみじめなサムソンでした。でもサムソンはいばる心を捨てて、すなおに神様の助けと力を求める心が育っていました。神様はサムソンにもう一度力を与えて、勝ちほこっていたペリシテ人たちをほろぼされました。


五月二四日(月)詩篇三二
 イスラエルの王様だったダビデでしたが、大きな罪をおかして、神様を悲しませました。ばれないはずでした。他の国の王様もみんなそれくらいのことはしていたかもしれません。でもダビデの心は痛みました。悪いことをした時に心が痛むのはすばらしいことです。神様にあやまろうよという心の呼びかけだからです。


五月二五日(火)詩篇五一
 この詩篇もダビデの悔い改めの歌です。神様は「ぼくには罪なんてないよ」とえばっている人より、「ごめんなさい」と自分の罪を泣いて悔い改める人を喜んでくださいます。そんなへりくだった心の人に神様はきよい心を与えてくださるのです。


五月二六日(水)詩篇六二
 この詩篇の作者はただだまって神様を待つと言いました。言いたいこともたくさんあるかも知れません。でも救いも望みも神様から来ることを作者は知っていたのです。そして待っていたら必ず神様が助けてくださることを知っていたのです。


五月二七日(木)イザヤ五七14〜19
 神様はかぎりなく高く、かぎりなくきよいお方です。その神様から見たら私たちは何と汚れて、弱い者でしょうか。けれども、神様はただ自分のきよさをいばっておられるのではなくて、私たちが自分の罪深さを認めて神様にすがるときに私たちのそばにいて私たちを生かしてくださるのです。


五月二八日(金)ホセア十四
 神様は私たちがどんなに失敗して、神様のおきらいになることをしてしまっても、帰ってこいと呼んでいてくださいます。ごめんなさいとすなおに神様のところに帰る人はだれでしょうか。


五月二九日(土)1ヨハネ一5〜10
 「わたしに罪がない」と言う人はうそつきだとヨハネは言います。サムソンだけではなく、私たちもみんな罪人です。でも私たちがそれを認めて神様に近づくときに私たちをゆるし、きよめてくださいます。私たちの罪がゆるされるためにイエス様は血を流してくださったのです。