聖書だ! ワクワク
□四月十七日(日) 創世記三1〜7 へびは女に近づいて言います。「神さまは本当にどの木からも食べてはいけないって言われたの?」。もちろん、神さまはそんなことはおっしゃっていません。けれどもへびは少しずつ女が神さまの言葉をうたがうようにとし向けます。そして「これを食べたらかしこくなって神さまみたいになる」と言われたときに女は食べてしまいました。神さまの言葉をきかなかったのです。 □四月十八日(月) 創世記三8〜13 最初の男と女はその場でバタンとは死にませんでした。でもそのときから、神さまからかくれるようになりました。神さまとの間に気まずいものが出てきて、男と女もおかしくなりました。男は女のせいにし、女はへびのせいにしました。だれもごめんなさいとは言えませんでした。 □四月十九日(火) 創世記三14〜19 神さまはへびと女と男にさばきの言葉を語られます。大変なことになりました。けれども、神さまは女のすえ(しそん)がへびのかしら(頭)を砕くとおっしゃいました。そしてやがてイエスさまは本当にあくまを打ち破ってくださいました。 □四月二十日(水) 創世記三20〜24 アダムとエバはいちじくの葉をこしにまきましたが、神さまは二人のために皮の着物を作ってくださいました。あたたかくてじょうぶな着物です。でも、この二人がそれを着るために、動物が死ななければなりませんでした。命がそこにかけられたのです。 □四月二一日(木) ローマ三9〜20 アダムとエバだけではありません。ユダヤ人もギリシャ人もどこの国の人もみんな罪を犯しました。だれも二人を笑うことはできません。私たちもみんな神さまの言葉をきかないで自分勝手だからです。自分の中にも罪が、神さまの喜ばれないものがあるということを知って、ごめんなさいと言える人はしあわせです。 □四月二二日(金) ローマ三21〜26 罪を犯した人は、自分で自分を救うことはできません。「義」とは正しさと言うことです。だれも「義」とはみとめられません。けれども神さまはイエスさまを信じる人を義としてくださいます。これこそが「私の義」ではなく「神の義」です。神さまが救ってくださるのです。 □四月二三日(土) 詩篇五一1〜21 この詩篇を書いたと言われるダビデはすばらしい王様でしたがある時、とんでもない罪を犯してしまいました。ダビデは神さまにごめんなさいと言って、わたしに清い心をくださいとお祈りしました。 |