2006年4月2日〜7月1日 聖書だ! ワクワク  みんなも一つずつ学年が上がったね。新しく小学校や中学校にあがった仲間もいることでしょう。心からおめでとう。学校が変わったり、クラスが変わったりするとちょっと心配になることがあるよね。でも大丈夫。神さまは教会だけではなくて、みんなが学校に行くときにも一緒に行ってくださるからね。  イエスさまが十字架についてくださったことを記念する受難週が近づいています。私たちの罪がゆるされて神の子とされるために、イエスさまが何をしてくださったかを忘れないようにしようね。 □ 四月二日(日)  ヨハネ十八1〜14  ケデロンの谷の向こうにはゲッセマネの園という場所がありました。イスカリオテのユダもよく知っている場所でした。たくさんの人たちが武器をもってイエスさまを捕まえにしました。イエスさまはどんな武器もやっつけられたと思いますし、逃げることもできました。でもイエスさまは「わたしだ」とおっしゃって十字架に向かって行かれたのです。 □ 四月三日(月)  ヨハネ十八15〜18  ペテロともう一人の弟子がこっそりついて行って、大祭司の庭に入り込みました。ペテロは様子をうかがい、何とかイエスさまを助けたいと思ったかも知れません。けれども門番の女の人にイエスさまの弟子でしょと言われたときに「いや、そうではない」と言ってしまいました。 □ 四月四日(火)  ヨハネ十八19〜24  イエスさまはいつも正々堂々としておられました。大祭司やユダヤ人たちは夜の間にこっそりイエスさまをつかまえて、さっさとイエスさまを殺してしまうとおもっていました。えらくてみんなから尊敬されている大祭司でしたけれど、心の中は真っ暗でした。 □ 四月五日(水)  ヨハネ十八25〜27  ペテロはあと二回、自分はイエスさまの弟子ではない、と言ってしまいました。ペテロは自分はもっと強いと思っていました。でも自分がおもっていたよりずっと自分は弱くて罪深いんだということを知らなければなりませんでした。 □ 四月六日(木)  ヨハネ十八28〜32  ユダヤ人たちは集まってイエスさまを死刑にすることに決めてしまいました。ユダヤ人たちはイエスさまをローマの総督のピラトのところに連れて行きます。「イエスは悪いことをした」と言うのですが、全くの言いがかりです。 □ 四月七日(金)  ヨハネ十八33〜40  イエスさまは確かに王でした。けれども、イエスさまはお金や暴力やいばる心で治めるようなこの世の王様とはちがいました。イエスさまはお金もありません。軍隊もありません。けらいもいません。弟子たちもみんな逃げていきました。でもイエスさまは真理の王様でした。見えない国の王様でした □ 四月八日(土)  ヨハネ十九1〜7  イエスさまは王冠のかわりにいばらの冠をかぶらせられました。頭から血が流れます。ローマの兵隊たちがイエスさまを笑いものにしました。ユダヤ人たち「十字架につけろ」と叫びます。しかしピラトはイエスさまに罪がないことを知っていました。 聖書だ! ワクワク  今週はいよいよ受難週です。イエスさまが受難週の日曜日にロバの子に乗ってエルサレムに来られたとき、イエスさまはもう自分が十字架につけられることを知っておられました。私たちの罪がゆるされて、神の子にされるためには、どうしても私たちのみがわりになって十字架にかからなければならないことをイエスさまは知っておられたのです。  けれどもイエスさまは進んで行かれました。イエスさまは私たちを救いたいと願っておられたのです。イエスさまはそれほど私たちのことを愛してくださったのです。あなたはこのイエスさまを信じましたか? □ 四月九日(日)  ヨハネ十九8〜12  ピラトは「あなたはどこから来たのか」とたずねます。イエスさまは天から来られました。イエスさまは本当に神の子でした。けれどもユダヤ人たちが、それでもあなたは「カイザル(ローマ皇帝)の味方か?」と叫んだとき、ピラトは神の味方であるより、カイザルの味方として生きる決心をしたのです。 □ 四月十日(月)  ヨハネ十九13〜16  イスラエルの人たちにとっては神さまこそが王の王でした。けれども本当は神さまの仕事をするはずの祭司長たちが、「私たちの王様はカイザルだけです」と叫びます。もうこの人たちの心の中で神さまは王様ではありませんでした。 □ 四月十一日(火)  ヨハネ十九17〜22  十字架につけられるのはものすごく悪いことをした人だけでした。それほど残酷な死刑だったからです。イエスさまは他の二人の人たちと一緒に十字架につけられます。何も悪いことをしていないイエスさまがすごく悪いと十字架につけられました。私たちの身代わりでした。 □ 四月十二日(水)  ヨハネ十九23〜27  イエスさまは上着や下着まで十字架の上で全部を与え尽くされました。イエスさまのところには何も残りませんでした。イエスさまは十字架の苦しみの中でも自分のお母さんのことを心配して、愛弟子(ヨハネのこと?)にお母さんのことをまかせました。 □ 四月十三日(木)  ヨハネ十九28〜30  イエスさまは「すべてが終わった」とおっしゃいました。イエスさまは失敗したのではありません。救いを完成してくださったのです。それは私たちが救われるために必要なすべてのことをイエスさまが十字架の上で成し遂げてくださったことを意味していました。 □ 四月十四日(金)  ヨハネ十九31〜37  ヨハネはイエスさまの十字架を思い起こしながら、旧約聖書に書いてあった通りだったと振り返っています。兵隊がイエスさまの脇腹をやりで突き刺しました。イエスさまは本当に死なれたのです。 □ 四月十五日(土)  ヨハネ十九38〜42  アリマタヤのヨセフは内緒でこっそりイエスさまを信じていました。けれどもイエスさまが十字架で死なれたとき、ニコデモと一緒にピラトのところに来て、イエスさまをお墓にほうむります。みんなに分かってもいいと思ったのです。ヨセフはイエスさまを信じていくことに決めたのです。 聖書だ! ワクワク  先週の金曜日はイエスさまが十字架にかかられた日なのですが、英語ではグットフライデーとも言います。これは「すばらしい金曜日」という意味の言葉です。私たちの罪を負って死なれた十字架はそれはそれは悲しく苦しいものでした。けれどもその金曜日に私たちの救いの道が開かれたのです。まだみんなの中でイエスさまを信じていない人がいたら、ぜひ信じてください。教会の先生にお話してね。  そして今日はイースター。何の日かって、もういいよね。イースターおめでとう! □ 四月十六日(日)  ヨハネ二十1〜9  日曜日の朝早く、マグダラのマリヤはイエスさまのお墓に行きました。ところがお墓の入り口においてあった大きな石がどけられています。マリヤはすぐにお弟子さんたちのところに走りました。ペテロたちが来てお墓をのぞくと何と空っぽでした。本当のところはまだ何が起こったのかよく分かっていませんでした。イエスさまはよみがえられたのです。 □ 四月十七日(月)  ヨハネ二十10〜18  マリヤは墓の外で泣いていました。イエスさまのお体がなくなってしまったからです。マリヤはイエスさまにとても感謝していましたから、死体にくさくならないお薬を塗ろうと思ったのです。でももうマリヤは泣かなくてもよかったのです。イエスさまはよみがえられたからです。 □ 四月十八日(火)  マタイ二八1〜10  イエスさまのお墓は空っぽでした。天使が言いました。「十字架にかかって死なれたイエスさまはもうここにはおられない。前から言っていたようによみがえられたのだ」。確かに聞いていました。でもあまりにも悲しくてイエスさまの御言を忘れていたのです。 □ 四月十九日(水)  マタイ二八11〜15  お墓の番をしていた兵隊たちはお墓の口があいて中が空っぽになってしまって、怖くてたまりません。でもユダヤ人たちは弟子たちがイエスさまを盗んだことにしてしまいました。イエスさまがよみがえられたことなど少しも信じませんでした。 □ 四月二十日(木)  マルコ十六1〜8  御使は「弟子たちとペテロに」イエスさまがよみがえられたことを伝えなさいと言いました。神さまはイエスさまのことを三回も知らないと言ってしまったペテロのことを心配しておられたのです。 □ 四月二一日(金)  マルコ十六9〜11  マグダラのマリヤは悪魔に心を奪われていました。でもそんなマリヤをイエスさまは救ってくださったのです。イエスさまのことが心配でならなかったマリヤにイエスさまはご自身をあらわされました。でもマリヤの話を他の人たちは全然信じませんでした。 □ 四月二二日(土)  1コリント十五1〜11  パウロが「福音(すばらしいニュース)」として伝えたのはイエスさまが聖書あるように、私たちの罪を負って、私たちの救いのために死んでくださったこと、確かによみがえられたことです。これは少しの人たちだけが見たのではありません。たくさんの人たちがよみがえられたイエスさまにお会いしたのです。 聖書だ! ワクワク  一回本当に死んだ人がよみがえるなんて普通はないことです。そんなこと聞いても、うそでしょう?と思います。信じられないのが普通です。ヨハネによる福音書を書いたヨハネも信じられなかったのでしょう。けれどもイエスさまは本当によみがえってヨハネのたちの前に現れてくださいました。  僕の前にも目に見えるように出てきてくれたらいいのにって?でも聖書はこんな風に言ってるよ。見たけどそれでも信じなかった人たちがいるって。みんなも見ないで信じる人になってください。 □ 四月二三日(日)  ヨハネ二十19〜23  イエスさまがよみがえられたイースターの夕方、弟子たちは戸を閉じてその日もふるえていました。自分たちもイエスさまみたいに捕まえられて十字架につけられてしまったらどうしようと思ったかも知れませんね。でもそんな弟子たちの所にイエスさまは来てくださって「シャローム(安かれ)」と声をかけてくださいました。 □ 四月二四日(月)  ヨハネ二十24〜29  トマスはそこにいませんでした。喜んでいるみんなのことがバカに見えます。ぼくは信じないよ。でもそんなトマスのためにもイエスさまは来てくださいました。「わが主よ、わが神よ」とすぐにわかったトマスに「見ないで信じる人は幸せだよ」と教えてくださいました。 □ 四月二五日(火)  ヨハネ二十30〜31  ヨハネがこの福音書を書いたのはみんながイエスさまを信じて、永遠の命をいただくてほしかったからです。ヨハネは本当にイエスさまが神の子で、私たちを救うために来てくださり、死んでよみがえってくださったこと、イエスさまを信じると救われることを知っていたからです。 □ 四月二六日(水)  ルカ二四36〜43  よみがえられたイエスさまが来られたとき、弟子たちは最初幽霊かと思いました。信じられなかったのです。イエスさまは手と足を見せ、魚を食べて、幽霊じゃなくて本当によみがえったんだよということを教えてくださいました。   □ 四月二七日(木)  1コリント十五12〜19  コリントの教会には死人の復活なんてないよと言う人たちがいました。でもパウロは「だってイエスさまはよみがえってくださったでしょ」と語ります。私たちもイエスさまと同じように、死んでもよみがえる日が来るのです。 □ 四月二八日(金)  1コリント十五20〜28  イエスさまが死を打ち破ってよみがえってくださったことによって、イエスさまを信じる人たちもやがてよみがえることは確かになりました。死は長く、人間を苦しめ、しばりつけてきました。けれども死もやがて滅ぼされるのです。 □ 四月二九日(土)  1コリント十五29〜34  もし私たちの人生が死んで終わりだったら、あまりがんばるのは無駄かも知れません。この世ではただ楽しくおかしく、できるだけなまけてするをして、悪いこともして生きた方が得だということになるでしょう。どうせ死んでしまうのですから。けれども、感謝なことに私たちの人生は死で終わらないのです。 聖書だ! ワクワク  ゴールデンウィークで、お休みがたくさんあってうれしいですね。お出かけする予定のある人もいるかもしれません。でも教会はお休みではありません。それから聖書もお祈りもお休みではありません。えーって、だってみんなお休みでもご飯はお休みにしないでしょ。空気を吸うのもお休みにしないでしょ。でもね。どうしても、お家でお出かけして日曜日お休みになる人は、教会の先生にそう言っておいてね。きっとみんなのためにお祈りしていてくれるから。 □ 四月三十日(日)  ヨハネ二一1〜8  弟子たちはガリラヤに帰って、もうイエスさまのお弟子さんやめて、また漁師になろうかなあと思ったかも知れません。でもイエスさまからはなれたら何にもできませんでした。そしてイエスさまがおっしゃるとおりにしたらたくさん魚がとれたのです。弟子たちがイエスさまと会った最初のころにもこんなことがあったよね。「人間をとる漁師にしてあげるよ」という約束はまだ変わっていませんでした。 □ 五月一日(月)  ヨハネ二一9〜14  イエスさまは夜通し仕事をして疲れていた弟子たちのために炭をおこして、パンと魚も用意していてくださいました。イエスさまはそしてそのパンと魚を弟子たちにくださいました。ヨハネ六章でもそんなことあったよね。 □ 五月二日(火)  ヨハネ二一15〜19  イエスさまはイエスさまのことを三回知らないと言ってしまったペテロに「私を愛するか」と三回聞いてくださいました。イエスさまはペテロが失敗しても、変わらないで愛していてくださり、またイエスさまのためのお仕事をしてほしいと思っておられたのです。 □ 五月三日(水)  ヨハネ二一20〜25  神さまは私たち一人一人に特別な御計画をもっておられます。ですから大切なことは人のまねをしたり、人と同じことをすることではありません。人と比べるのではなく、神さまがあなたに願っておられることを見分けて、真実に神さまに従うことなのです。 □ 五月四日(木)  1コリント十五35〜41  イエスさまがよみがえられたときにはイエスさまは特別な体をもっておられました。閉め切った部屋に入ってこられたり、突然消えてしまったりしたこともありました。私たちがよみがえるときにも、天のからだによみがえるのだとパウロは言いました。 □ 五月五日(金)  1コリント十五42〜49  ここではよみがえるときに与えられる体を霊のからだと言います。それはおばけになるということではありません。くたびれたり、悪くなったりすることのない、強いもの、栄光のからだによみがえるのです。そのようなよみがえりの命をイエスさまは私たちに与えてくださるのです。 □ 五月六日(土)  1コリント十五50〜58  私たちはやがて死にます。でも私たちは死んで終わりではありません。イエスさまがすでに死に勝利してくださり、私たちにも死に対する勝利を与えてくださるからです。だから私たちは心から喜んで精一杯神さまに仕えていくのです。 聖書だ! ワクワク  今日からヨハネの黙示録を学びます。イエスさまが天に帰られて教会が生まれてから七十年近くたって、イエスさまのお弟子たちももうヨハネだけになっていたかもしれません。ローマの皇帝は教会を迫害し、イエスさまを信じている人たちを苦しめていました。ヨハネも島流しの刑になっていました。けれどもヨハネはイエスさまの勝利を知っていました。最後はローマではなく、イエスさまが世界を治めることも知っていました。ヨハネは神さまから言われて、教会の人たちに手紙を書きます。それがこの黙示録なのです。 □ 五月七日(日)  黙示録一1〜3  「時が近づいている」。イエスさまの勝利の完成の時、雲にのって世界を裁くために来られるその日が近づいています。いろいろなことがあります。まるで神さまなどいないのではと思うほどにいろいろなことが起こっています。けれども確かに歴史は神の御計画の通りに動いているのです。私たちは目をさまして備えたいと思います。 □ 五月八日(月)  黙示録一4〜6  ヨハネは島流しになる前にアジア州の中心であったエペソの町の教会で牧師をしていたと言われています。ヨハネはアジア州の七つの教会にこの黙示録を送ろうとしています。ヨハネはイエスこそが世界の支配者、私たちを愛し、救って、私たちを神さまの国に生きる者に変えてくださったと賛美しています。 □ 五月九日(火)  黙示録一7〜8  イエスはやがて雲に乗って帰って来られます。ふと気がついたらいつの間にか来ていたよということはありません。その日にはみんながそのイエスさまを見るのです。アルパとオメガとは最初を造り、最後を完成する方と言うことです。 □ 五月十日(水)  黙示録一9〜16  ヨハネはイエスさまを信じ、イエスさまに従っていたために捕まえられてパトモスという小さな島に連れて行かれました。日曜日のことです。ヨハネはそこでも礼拝をしていたでしょう。ヨハネは栄光に輝くイエスさまにお会いしたのです。 □ 五月十一日(木)  黙示録一17〜20  イエスさまは確かに私たちの罪を負って十字架の上で死んでくださいました。けれどもよみがえって、今も、いつまでも生きておられます。イエスさまが世界を造り、それを完成してくださるのです。そしてそのイエスさまがヨハネに大切なことを教えてくださいました。 □ 五月十二日(金)  ピリピ二1〜10  イエスさまは神の子でしたが十字架の死にまでも従って、ご自身を低くしてくださいました。けれども、そのイエスが今は高く引き上げられて、神の右に座しておられます。すべての人はイエスを信じて、神を賛美すべきです。 □ 五月十三日(土)  エペソ二1〜10  イエスさまはよみがえって天で座につかれただけではなく、私たちもまた共に天で座につかせてくださいます。それは将来と言うだけではありません。もうすでに私たちはイエスと共に神の国に生きる者とされている、そうパウロはエペソの教会の人たちに語りました。 聖書だ! ワクワク  黙示録ってわかりにくいよね。たとえば一章に出てきたイエスさまも「目は燃える炎のよう」「右手に七つの星を持ち」「口からは鋭いもろ刃の剣が出ており」???ですね。黙示録はローマの帝国の迫害の時代に書かれて、なかなか思うようにものが言えない時代でした。だからローマ皇帝が分からないような特別な言い方をしたり、たとえを使ったりしたのですね。  でもこの黙示録を受け取った教会の人たちにはヨハネの言いたかったことはだいたいよく分かったはずです。私たちもこの黙示録を読む中で、励ましをいただいたり、天国のことがよく分かるようになってくるのです。 □ 五月十四日(日)  黙示録二1〜7  七つの教会あての手紙の第一番はエペソです。エペソの教会の人たちは最初救われて神さまを愛してスタートしたころの神さまを愛する愛をなくしていました。イエスさまはそれが一番大事だから、なくしてはいけないよと教えられたのです。 □ 五月十五日(月)  黙示録二8〜11  スミルナの教会もいろいろな苦しみを受けていました。けれどもイエスさまはその苦しみの時がやがて終わること、そして最後まで忠実に神さまのしもべとして生きることの大切さを教えられたのでした。始めるのはやさしくても、最後まで忠実に生き続けるのはやさしいことではありません。 □ 五月十六日(火)  黙示録二12〜17  ペルガモには悪魔の基地がありました。でもそこにも教会があって悪魔と戦っていたというのはすごいことですね。でも同時にイエスさまはペルガモの教会に悔い改めないといけないこともあると教えられたのでした。 □ 五月十七日(水)  黙示録二18〜28  テアテラの教会が前よりも良くなっていることを神さまはちゃんと見ておられました。けれども同時にテアテラの教会の中に罪を犯し続けている人がいたことも分かります。神さまが悔い改めるチャンスをくださるときにそれを断ってはいけません。 □ 五月十八日(木)  黙示録三1〜6  サルデスの教会は外から見ると元気に見えましたが、「実は死んでいる」とイエスさまはおっしゃいます。悲しいことです。外側がどう見えるかではありません。その人や教会の中身を神さまは見ておられます。 □ 五月十九日(金)  黙示録三7〜13  ヒラデルヒヤの教会は決して強い教会ではありませんでした。けれどもこの教会は神さまの言を守って進んでいました。神さまもこの教会を守ってくださいました。この教会が戦うことができたのは、この教会の力ではなかったのです。 □ 五月二十日(土)  黙示録三14〜22  ラオデキヤの教会は最初からしかられています。この教会は自分たちの本当の姿が分かっていなかったのです。イエスさまはこの教会にとても厳しいように見えます。けれどもそれはイエスさまが彼らを愛しておられたからです。イエスさまはイエスさまを閉め出してしまったこの教会と親しい交わりを取り戻したいと願っておられたのです。 聖書だ! ワクワク  天国では私たちは何をするのでしょう。天国での仕事は何でしょう。それは神さまを賛美することです。私たちがこの地上で賛美をするのは天国に行く備えであり、また私たちの地上の賛美は天の賛美につながっています。  一人で賛美するのもいいけれど、みんなで賛美するのもすばらしいですね。教会ってすてきだなといつも思います。年も仕事も性格もみんなちがうのに、心を一つにして賛美できるからです。そして天国では時代も国もちがうたくさんの人たちが集まって神さまを賛美するのです。 □ 五月二一日(日)  黙示録四1〜5  天の門は開かれています。そしてイエスさまを信じる人はそこから入っていくことができます。天には神さまの御座(椅子)があります。そしてそこに神さまがおられるのです。天の中心は、天のすばらしいのはまさに、その御座なのです。白い衣を着て、冠をかぶった長老たちは、イエスさまによって救われ、イエスさまのために生きたしもべたちです。 □ 五月二二日(月)  黙示録四6〜8  御座のそばに四つの生き物がいました。それぞれに六つの翼をもっていました。そして「聖なるかな」と歌います。これは天使のような生き物だろうと言われています。昼も夜も休むことなく四重唱をかなでていたのです。 □ 五月二三日(火)  黙示録四9〜11  二四人の長老たちは神を礼拝し、冠を投げ出して主を賛美します。確かに冠は神さまからいただいたものだったのでしょう。けれども聖なる神さまをたたえる時にはすべての栄光は主にお返しするのです。すべてのものを御計画の中に造り、支えておられるのは神さまだと二四人は賛美します。 □ 五月二四日(水)  黙示録五1〜5  神の右の手の巻物には歴史の御計画が書かれているのでしょう。その巻物を勝手に開くことのないようにとめていた封印が解かれます。その封印をとってその巻物を開き、歴史を完成に進めることができるのはイエスさまだけだったのです。 □ 五月二五日(木)  黙示録五6〜10  小羊とはイエスさまのことです。イエスさまが巻物を受け取ったときに、四つの生き物と二四人の長老が人々の祈りの中で共に新しい賛美をします。その血を流して世界中の人々が救われる道を開いて、天国の民としてくださったイエスさまをたたえるのです。 □ 五月二六日(金)  黙示録五11〜12  四つの生き物と二四人の長老に続いて御使たちの賛美の声が響きます。とても大勢の御使いで、数え切れないほどです。十字架にかかられたイエスこそが栄光と賛美とを受けるべきお方だと賛美します。 □ 五月二七日(土)  黙示録五13〜14  さらに大きな声が響き渡ります。すべての神に造られたものが神を賛美するのです。それは天も地も、陸も海も、その中にあるすべての造られたものが神を賛美するのです。コーラスの輪がどんどん大きくなっていたのが分かったでしょうか。その賛美の中にやがて私たちも加わるのです。 聖書だ! ワクワク  黙示録の六〜二十章まではとても分かりづらい部分です。ただそこに書かれているのは、歴史は進んでいき、そして悪の力も大きくなっていくけれど、神の救いの御計画は完成に向かって進んでいき、ついにイエスがもう一度帰ってこられる。そして裁きが行われ、滅びに行く者と、天国に迎え入れられる者が分けられる。ついに悪魔が滅ぼされ、天の御国が完成するということです。  難しくてもぜひ、皆さんも読んでください。最初、黙示録を読んだ教会の人たちは迫害と困難の中で、これを読んで慰められ、励まされたのですから。 □ 五月二八日(日)  黙示録二一1〜4  今の天と地は消え去って、神さまはイエスさまを信じて歩んだ者たちの住む新しい天と新しい地を造ってくださいます。今の天と地には多くの痛みや、叫びや、悲しみがあります。けれども、やがて神さまが私たちを住ませてくださるその国には、全くそのようなものはないのです。神さまが共にいてくださいます。 □ 五月二九日(月)  黙示録二一5〜8  神さまはすべてのものを新しくしてくださいます。このことは本当に実現することです。イエスさまを信じて勝利を得る人たちはこの天国に住むことができます。けれども信じないで、罪を行い続けた者たちは地獄に行かなければなりません。イエスさまを信じましょうね。 □ 五月三十日(火)  黙示録二一9〜14  エルサレムは神の都と呼ばれていましたが、その都で治めていた代々の王たちの多くは神さまにそむいて、その都も滅んでしまいます。その都が再建されてもまた、今度は神の御子を十字架につけてしまいます。けれども、新しい都は神に住んでいただくのにふさわしいものなのです。 □ 五月三一日(水)  黙示録二一15〜27  新しい都には全く欠けがなく、とても美しい都です。それだけではなく、そこには神がいてくださって、その神の栄光によって都全体がいつも明るいのです。そこに入れるのはイエスさまを信じていのちの書に名前が書かれている人だけです。 □ 六月一日(木)  黙示録二二1〜7  新しい都の中央にはいのちの水の川が流れています。そこに住む人たちはみんな主のものとされた人たちです。この人たちはいつも主を礼拝し、喜びをもって主の御顔を見るのです。私たちが毎週教会でささげる礼拝もこの天国の礼拝につながっています。 □ 六月二日(金)  黙示録二二8〜16  私たちは語られている聖書の言葉を信じなければなりません。イエスさまは「すぐに来る」とおっしゃいました。私たちはイエスさまによって心を洗っていただいて、神さまの前にいつでも立つことのできるように備えていたいと思います。 □ 六月三日(土)  黙示録二二17〜21  あなたは「アーメン、主イエスよ、来たりませ」と今でも言うことができますか。それとも今はちょっと都合が悪いので待ってくださいと言わないいけないでしょうか。「かわいている者はここに来るがよい」と招いてくださる神さまにすがって、イエスさまの救いをいただきましょう。 聖書だ! ワクワク  今日は教会の誕生日、ペンテコステです。ペンテコステとは「五十日の祭り」という意味で、その年の最初の収穫を神さまに献げる日でした。過越の祭りから五十日です。もともと昔からイスラエルの中で祝われていた祭りだったのですが、教会の中では違った意味で大切な日になります。イエスさまがよみがえられてから五十日目のその日、聖霊が下られて教会がスタートしたからです。  聖霊はその日以来、今も私たちの内に注がれています。聖霊がおられなかったら教会は教会ではありません。私たちも聖霊なしにクリスチャンとして歩むことはできません。でも安心してください。聖霊はすでに注がれていますし、求める者といつも共にいてくださるからです。 □ 六月四日(日)  ルカ十一1〜4  イエスさまが祈っておられる姿を見て、弟子たちは自分たちもお祈りしたいと思いました。お祈りを教えてもらいたいと思いました。イエスさまの祈りは楽しそうだったのでしょうね。 □ 六月五日(月)  ルカ十一5〜13  イエスさまは「主の祈り」を教えられた後で、求め続け、祈り続けるようにとおっしゃいました。熱心だったらきっとお祈りを聞いてくれるよ、ということではありません。けれども真剣な求めを無視されることはないでしょう。私たちが一番求めなければならないのが聖霊です。 □ 六月六日(火)  使徒行伝一1〜5  聖霊を与えることは父なる神さまの約束でした。よみがえられたイエスさまは弟子たちにその約束を信じて待つようにとお命じになりました。神さまは約束したことを必ず実現してくださるからです。そして弟子たちもその約束を信じて待ったのです。 □ 六月七日(水)  使徒行伝一6〜11  イエスさまが天に帰ってしまって弟子たちは大丈夫だったのでしょうか。ちょっと心配ですね。でもイエスさまは聖霊が下られたらだいじょうぶと知っておられました。聖霊は弟子たちに力を与えてイエスさまを証しする人に造り変えてくださるからです。 □ 六月八日(木)  使徒行伝一12〜14  十一人のお弟子さんと女の人たち、イエスさまの家族、全部で百二十名ばかりの人たちが一緒に心を合わせてお祈りをしていました。心を合わせるのは本当はやさしいことではありません。けれどもみんなが同じ思いになってひたすら聖霊を祈り求めたのです。 □ 六月九日(金)  使徒行伝二1〜13  祈り始めて十日目のことでした。祈っていた人たちの上に聖霊が降られました。その時、弟子たちの中に勇気と力と知恵と一致が与えられ、いろいろな国の言葉でイエスさまのことを話し始めたのです。その日、話を聞いて後でたくさんの人たちがイエスさまを信じるようになります。 □ 六月十日(土)  使徒行伝二14〜21  ペテロはこのことがイエスさまが言い始めたことではなく、それよりももっと昔の預言者ヨエルの時代から神さまが約束していてくださったことだと人々に語ります。神さまの霊が注がれて、弟子たちは幻を見、御言を語る人へと変えられたのです。 聖書だ! ワクワク  続けてお祈りのことについて学んでいます。みなさんはお祈りしていますか。ご飯のお祈り以外に一人でお祈りすることがありますか。お祈りが好きですか。お祈りってどんな風にしていますか。みんなで話し合ってみましょう。  六月の教会学校の中でみんなが家でも一人でお祈りできるようになってほしいと思いますし、お祈りの好きな人になってほしいと思います。  子どもだけで何人かでお互いのためにお祈りし合うような子どもお祈り会なんかどうでしょう。教会の先生にも相談してごらん。きっと喜んで助けてくれると思いますよ。 □ 六月十一日(日)  ルカ十七11〜19  十人の病気の人がいました。みんな病気のために家から出て家族とも会えなくなりました。でもこの十人はイエスさまにこの大変な病気を直してもらいました。みんな大喜びです。でも喜びすぎて、十人の中の九人がイエスさまの感謝することを忘れてしまったのです。感謝をわすれてはいけないですよね。 □ 六月十二日(月)  1歴代十六4〜13  ダビデ王様の賛美です。ダビデ王様は自分が王様になり、「神の箱」をエルサレムまで運ぶことができたとき、うれしくてうれしくて心からの感謝をささげました。「くすしきみわざ」とは思いもかけない不思議な神さまのお働きのことです。神さまのなさることは何てすばらしいのだろうとダビデは歌ったのです。 □ 六月十三日(火)  1歴代十六14〜18  ここではダビデは神さまがその約束を守られたことを感謝しています。イスラエルの人たちは何回も神さまの言うことを聞かず反抗しました。でもそれでもイスラエルを見捨てられなかったのは、神さまがアブラハムと約束されたからなのです。 □ 六月十四日(水)  1歴代十六19〜22  アブラハムの子孫は数も少なかったし、自分の国もありませんでした。どこの国でもお客さんでした。でも神さまはアブラハムの子孫を助け、すべての敵や災いから守られたのです。そのことを忘れてはいけないとダビデは歌います。 □ 六月十五日(木)  1歴代十六23〜27  聖書の神はどんな国の神にも比べものにならない偉大な神です。それはこの神が世界の造り主だからであり、この方が私たちの救い主だからです。だからダビデは感謝し歌わないではおられなかったのです。 □ 六月十六日(金)  1歴代十六28〜36  「主に栄光を帰する」とは自分が何かすごいものであるかのように言わないで、自分を支えてくださる神さまだけをたたえることです。神さまだけを賛美することです。だからダビデは自分が王でありながら、おえれはこんなに偉いんだはなく、「主は王」で主はすばらしいと告白したのです。 □ 六月十七日(土)  詩篇一〇三1〜5  神さまは私たちの罪をゆるし、私たちにいのちを与え、私たちの生活を良い物でいっぱいにしてくださいます。だから神さまがしてくださったすばらしいことをいつも覚えて、この神さまに心いっぱい感謝しましょう。みんなも感謝なことを数えて一つずつお祈りしてみてください。 聖書だ! ワクワク  お祈りの中で神さまに感謝したり、神さまを賛美するのはとてもすばらしいことです。そして、お祈りの中で、私たちはどんなことでも神に求めることができます。もちろん六月の最初の週に学んだように、大事なものが何かをちゃんと知って、大事なものを求めるというのが一番ですが、同時に神さまは小さな私たちのどんな求めも聞いてくださいます。ところが「神さまはお祈りを聞いてくださる」と言っても、「でもこの前もお祈りしたのにかなえてくださらなかったからなあ」というお友だちもいるかもしれません。もしそのお祈りが神さまをお喜ばせするものだったら、あきらめないで祈り続けることが大切です。 □ 六月十八日(日)  ルカ十八1〜8  神さまは弱い小さな私たちのお祈りも聞いて、私たちを助け、私たちを救ってくださいます。だめだとあきらめないで、信じることをやめないで、祈り続けてください。神さまはわたしたちをそのまま放っておかれることはないからです。 □ 六月十九日(月)  エペソ六18〜20  パウロはエペソの町のクリスチャンたちがどんなに大変かをよく知っていました。悪魔も必死です。だからこちらもしっかり神の武具をつけて戦わないと大変なことになります。その悪魔との戦いに勝っていくためにもいつでも御霊によって祈り続けることが大切です。自ら祈ること、また他の人に祈ってもらうことも大切です。 □ 六月二十日(火)   1テサロニケ五16〜18  神さまが私たちに求めておられることの一つが「感謝すること」であり、また一つが「絶えず祈ること」です。やめないで、いつも祈り続けましょう。。神さまは私たちの祈りを喜んでくださいます。 □ 六月二一日(水)  ピリピ四4〜7  いろいろ心配になることもあるでしょう。でも大切なことは感謝をもってどんなことでも、神さまに申し上げることです。神さまに祈り求めることです。神さまは祈る人を平安をもって守ってくださいます。不安と恐れから解放してくださいます。 □ 六月二二日(木)  ローマ十二9〜12  苦しいことがいろいろある中でもその中でも祈り続けましょう。神さまはちゃんと聞いて、答えてくださいます。苦しい中にいる他のひとたちのためにもお祈りしましょう。祈ることは愛することでもあるからです。また私のためにも祈ってねと祈り合う友だちを作りましょう。 □ 六月二三日(金)  マタイ七7〜12  求め続けていれば与えられるというのは神さまの約束です。もちろん、神さまが私たちのことを考えて、これは与えないと決められることもあります。でも知っていてください。神さまはいつでも私たちに最高に良いものをくださるのです。 □ 六月二四日(土)  ヨハネ十六23〜24  私たちはイエスさまのお名前によって祈ることをゆるされています。そして神さまは私たちの祈りにこたえてくださいます。ですから毎日祈りましょう。祈りはおつとめではなく神さまが私たちにくださった恵みです。祈りは私たちに喜びを与えてくれるのです。 聖書だ! ワクワク  教会でみんなの前でお祈りするのって好きですか。一人だったらいいけど、みんなの前でお祈りするのは苦手という人が多いかも知れません。なぜみんなの前でお祈りするのが恥ずかしいのでしょうか。それはかっこいいお祈りができなくて、みんなにばかにされたらどうしようという恐れがあるのかもしれません。でも大切なのは大人のようなかっこいい、整ったお祈りができるかどうかということではありません。みんなが神さまの前に正直に真実にありのままで出るかどうかということです。みんながお祈りするのは周りにいる誰かではなく、天のお父さんだからです。 □ 六月二五日(日)  ルカ十八9〜14  パリサイ人はお祈りの名人だったでしょう。真面目でみんなからもほめられていたでしょう。自分でも自分は偉いと考えていました。でも取税人はみんなからも悪いやつだと言われていました。「罪人のわたしをあわれんでください」と祈る祈りに神さまはこたえてくださいました。 □ 六月二六日(月)  1ペテロ五5〜7  高ぶる、いばる、自慢するということは神さまの前でもいばることになります。神さまは全部をご存じなのですから、神さまの前に正直に自分の弱さだとか罪深さを認めて神さまに助けを求めましょう。神さまは心配して、助けてくださいます。 □ 六月二七日(火)  ヤコブ四1〜10  求めても与えられないのは自分のしか考えないからであり、自分が楽しんで、得をすることばかり考えているからです。神さまは私たちの祈りにこたえて私たちに恵みを注ぎたいと願っておられます。けれども水が低いところにしか流れないように、私たちが自分を低くしないと、恵みが流れてこないのです。 □ 六月二八日(水)  イザヤ五七14〜21  神さまは聖なるお方です。偉大なお方です。高いお方です。けれども、同時に神さまはへりくだる人、自分の罪を認めて神さま、助けてくださいとあわれみを求める人のところに来てくださってその人の心の中に住み、その人を救ってくださるのです。 □ 六月二九日(木)  マタイ九9〜13  マタイの家でパーティーがあったとき、罪人と言われている人たちがたくさん集まっていました。でもイエスさまはこの人たちは自分が罪人であること、自分の心が病気であることが分かっている。そして助けを求めている。私はこういう人たちを神さまのところに招くために来たんだとおっしゃったのです。 □ 六月三十日(金)  マタイ二三1〜12  パリサイ人たちはみんなからほめられること、先生と呼ばれることが大好きでした。自分は先生だから、面倒くさいことはみんな他の人にやらせました。けれどもイエスさまは仕える人、自分を低くする人になりなさいとおっしゃいました。 □ 七月一日(土)  マタイ二三25〜28  イエスさまはパリサイ人たちも人から見えるところでどんなに立派に見せたとしても、心の中はきたない物がいっぱいだとおっしゃいました。本当はパリサイ人たちも自分が罪人であることをしらなければならなかったのです。