だいぶ涼しくなって秋らしくなってきたのではないでしょうか。秋はいろいろなことをするのにとても気持ちの良いときです。お出かけしたり、学校の運動会があったりするお友だちもいるかもしれません。もし、どうしても教会に行けないときには教会学校の先生や牧師先生に前もってお話ししておこうね。え、牧師先生はおっかなそう? いえいえ、牧師先生はみんなのことを心配してお祈りしてくれるのです。そしてどうしても日曜日にこられないときには、別の日でもいいから、教会に来て、ぜひ先生にお祈りをしていただこうね。 □十月一日(日) 民数二十1〜9  イスラエルの人たちは何か困ったことやいやなことがあると「ああ、エジプトにいたらよかった」とモーセに文句を言いました。でもモーセはいつでも、困ったことを神さまのところにもって行きました。神さまが困ってしまうことは絶対にないからです。あなたは困ったことをどこに持って行きますか? □十月二日(月) 民数二十10〜13  どうもさすがのモーセもいらいらしていたようです。みんなに言わなくてもいいことを言って、神さまには「岩に命じ」るように言われていたのに、怒りにまかせて岩を二回杖でたたきました。モーセをしたことは神さまの思いとは違っていました。神さまは大変悲しまれました。 □十月三日(火) 1ペテロ一13〜16  神さまは「聖なる」お方です。だから私たちにも聖であることを願っておられます。この世に流され、悪魔の言いなりになってしまうのではなく、罪から離れて、何をするにも神さまのためにすることを願っておられるのです。 □十月四日(水) 詩篇八一  神さまはいつでもイスラエルの人たちのお祈りを聞いてくださったのに、イスラエルの人たちはすぐに文句を言って、他の神さまのところに行きました。恵みをいっぱいに満たそうと願っておられたのに、本当の神さまを信じて、神さまにすがろうとはしませんでした。 □十月五日(木) 詩篇一〇六1〜12  詩篇は昔のイスラエルの人たちの祈りであり、賛美です。証であり、叫びです。イスラエルの人たちはよく自分たちのご先祖の時代に神さまがしてくださったことを歌い、覚えていました。エジプトで奴隷だった彼らを救い出してくださったことを忘れないようにしたのです。 □十月六日(金) 詩篇一〇六13〜23  イスラエルの人たちは何度も神さまを試み、文句を言い、罪を犯しました。神さまの嫌われることをしました。けれども、そんなイスラエルの人たちのためにモーセはいつもお祈りしていました。 □十月七日(土) 詩篇一〇六24〜33  メリバの水のところでもイスラエルの人たちは文句を言いました。神さまを信じないことを言いました。その時にはモーセもよけいなことを言ってしまったのでした。私たちはいらいらしたり起こっているときには、すごく言葉を平気で口にすることがあります。気をつけたいと思います。  みんなは教会学校の先生のためにお祈りしたことがありますか。先生たちはみんなのためにお祈りしてくれているのですが、先生たちもみんなのお祈りがほしいのです。え?だって先生は大人じゃない?そう。先生でも、大人でも、大変なこと・困ることがたくさんあるかもしれません。みんなが先生たちのことを覚えてお祈りしていると神さまはちゃんと聞いていてくださいます。まず今度の日曜日の子ども礼拝のお話が誰か聞いておいて、一週間その先生のためにお祈りしようよ。 □十月八日(日) 民数二一4〜9  またまたイスラエルの人たちは文句を言っているね。何の文句?そういろいろあったんだけど食べ物の文句もよく言っていたね。食べ物の文句すぐに言うお友だち、いないかな。文句を言ったイスラエルの人たちのところにこわいへびが出てきて大変なことになりました。助かったのは神さまのおっしゃったことを信じて青銅のへびを見上げた人たちだけでした。 □十月九日(月) イザヤ四五22  神さまはイスラエルの人たちに「わたしを仰ぎのぞめ」と語られました。イスラエルの人たちは何か大変なことがあると、すぐに他の人の手で作った神々や、強い国にすがろうとしたからです。けれども私たちを救うことができるのは本当の神さまだけです。 □十月十日(火) ヨハネ三1〜8  ニコデモは聖書の先生でした。きっとイエスさまにいろいろ質問したいことがあったのでしょう。でも「新しく生まれないと神の国を見ることができない」と言われて困ってしまいました。あなたは新しく生まれていますか。あなたは神の国に入れるでしょうか。 □十月十一日(水) ヨハネ三9〜15  新しく生まれるとは、ちょうど木にかけられた青銅のへびを見た人が救われたように、十字架にかけられたイエスさまを信じて見上げることです。イエスさまを信じる人は永遠の命を得、神の国を見ることができるのです。 □十月十二日(木) ヨハネ三16〜21  私たちを愛してくださった神さまは、罪を犯して滅んでしまう私たちを救うために、イエスさまをこの世に送ってくださいました。このイエスさまを信じる人は一人残らず天国に行くことができます。どうイエスさまを信じたらいいかわからない人は教会の先生に聞いてくださいね。 □十月十三日(金) ヘブル十二1〜2  私たちはイエスさまを信じ見上げて救われますが、私たちのクリスチャンとしての歩みもまたイエスさまを仰ぎつつしていきます。あの時信じたというのも大切ですが、私たちが信じ続けていくことが大切です。イエスさまは必ず私たちの信仰の歩みを助けてくださいます。 □十月十四日(土) 詩篇二五  この詩篇の作者の周りには作者を憎んでいるたくさんの敵がいました。作者はまた自分が罪深い者であることをよく知っていました。けれども、この作者は神さまを見上げ、神さまを仰ぎます。神さまにすがるしかないと知っていたからです。  みんなのそばには、みんなを愛して、みんなのためにお祈りしてくれている人たちがたくさんいます。みんなはみんなのまわりにいる人たちのためにお祈りしたことある? みんなの家族、学校の先生や友だち、近所のおじさんやおばさん、親せきの人たち、キャンプで会った仲間・・・。神さまはたくさんの人たちを私たちの周りに置いていてくださいます。私たちはその人たちのことを神さまに感謝し、また私たちの周りにいる人たちのために神さまの祝福をお祈りしたいと思います。神さまはみんなのお祈りを聞いていてくださいます。 □十月十五日(日) マタイ十八21〜35  誰かがみんなに悪いことをした時に、「ごめんね」って言われてもなかなかゆるせないことってあるかもしれないね。でも、イエスさまは何回でも赦しなさいとおっしゃいました。それは私たちが神さまにもっともっとたくさん赦されているからです。心からゆるすことができるように神さまに助けていただこうね。 □十月十六日(月) エペソ四25〜32  私たちはすぐに怒ってけんかをしたり、悪いことを考えたり、思いっきり悪口を言ってしまうことがあるかもしれません。でも聖書は神さまがゆるしてくださっているのだから、私たちもお互いにゆるすようにと教えています。どっちが先にゆるすか?私たちの悪いことはまず先にあやまり、先にゆるしたいですね。 □十月十七日(火) コロサイ三12〜18  誰かにいやな部分・困ったこと・直してもらわないと困ると思うことがあったら、普通はその人の悪いところをガンガン言いたくなるものです。けれども聖書はもし誰かに悪いことがあったらまずゆるし合いなさいと言います。神さまがまずゆるしてくださったからです。 □十月十八日(水) ルカ六37〜42  人をさばくとは、人の悪いところ取り上げて「なんて悪いのだ」と責めたて、そんなあなたには神さまに愛される資格などないと切り捨てることです。私たちは人の欠点はよく見えるのです。 □十月十九日(木) マルコ十一20〜25  誰かに何かうらみを持ち、その人に憎しみと悪い思いを持ったままでお祈りしても、神さまは悲しまれるでしょう。誰かがあなたに悪いことをして、あなたがその人にうらみを持っているとしたら、まずその人をゆるすことができるようにお祈りしたいと思います。 □十月二十日(金) マタイ六9〜14  主の祈りの中にもゆるしを求める祈りがあります。私たちも毎日、主の祈りを祈るたびに「ゆるします」と祈り、「ゆるしてください」と祈るのです。私たちは神さまから毎日たくさんゆるしていただかなければならないからです。主の祈りをもう一度ゆっくり味わってみましょう。 □十月二一日(土) ルカ二三32〜38  イエスさまは、笑いものにされ、ばかにされ、苦しめられながらも、自分を十字架につけた人たちをゆるし、その人たちがゆるされるように祈られました。十字架上の苦しみと祈りがあったから、私たちは罪がゆるされ、救われるのです。  みんなは将来、何になりたいですか。どんな夢がありますか。いろいろな夢があるでしょうね。その夢を実現させるために何かしていることがありますか。夢がたくさんある人も、まだない人も、神さまがみんなに何をさせようとしておられるか、何になってほしいと思っておられるかお祈りしてみようね。そして、どんなにみんながまだ小さくても、夢を持ちながら、今できることを一生懸命やっていこう。誰?「お金持ちになりたい」って言った人。そのお金を何に使うかが問題だよね。 □十月二二日(日) ルカ十二13〜21  このお金持ちはお金をたくさん貯めて、持ち物をいっぱい持って、楽をしてぜいたくに暮らすのが目標だったのでしょう。けれども、このお金持ちは自分の命のことを考えていませんでした。自分のことばかり考えて、自分のためだけにお金をためているのはもったいないことです。神さまのため、また人のためにお金を使っていくと天国に貯金をすることになります。 □十月二三日(月) ルカ十二22〜34  食べるものや着る物のことばかり心配しているのはばかなことです。なぜなら、そういったものが必要なことは神さまもご存じであり、神さまが心配していてくださるからです。私たちにとって一番大切なことは神さまの国を求めることです。 □十月二四日(火) マタイ六19〜24  みんなにとって一番大事なのは神さまですか。それともお金ですか。お金の方が大事な人は神さまを求めることができなくなります。そして、お金の言うことは何でも聞くようになります。お金のために何でもするようになります。それはお金の奴隷です。 □十月二五日(水) マタイ十九16〜22  一人のお金持ちがイエスさまのところに来ました。永遠の命がほしかったのです。聖書の言葉は何でも守って来ました。その自信もありました。でもそれではあなたの財産を手放しなさいと言われた時、この青年は永遠のよりもお金と財産を選びました。悲しいことですね。 □十月二六日(木) マタイ十九23〜29  イエスさまはお金を持っている人が天国に行くのはむずかしいとおっしゃいました。お金がいくらあっても天国には行けません。人は自分の力で天国に入れないのです。でも神さまには私たちが天国に行けるようにする力があります。 □十月二七日(金) 2コリント六1〜10  パウロは自分は貧しいようだけれど多くの人を富ませている。たくさんの人たちに与えている。何も持っていないようだけれど、どんなものでも持っていると言いました。確かにお金はもっていなかったかもしれません。けれども、神さまの恵みをみんなに分けてあげたのです。 □十月二八日(土) 2コリント九6〜8  この箇所では献金のことが言われています。私たちは喜んでささげる人になりたいと思います。なぜそんなにささげられるのでしょうか。献金が楽しいのでしょうか。神さまが私たちを豊かな恵みに満たしてくださったからです。その神さまの愛と恵みを感じているからです。  十月三十日は何の日か知っていますか。宗教改革記念日です。一五一八年のこの日にルターという人がその時代の教会のあり方は間違っていると言ってそのころのカトリック教会に抗議を始めた日です。ルターは(1)人は修行やがんばりによって救われるのではなく、信仰によって救われると言うこと、(2)聖書が信仰の土台であること、(3)イエスさまを信じるみんなが神さまの大切なお仕事を与えられ、お祈りする役目があることをみんなに伝えました。ルターのこのような信仰の歩みを受け入れる教会をプロテスタント教会と言います。私たちもそのプロテスタント教会の一つです。 □十月二九日(日) マタイ二四32〜51  人の子とはイエスさまのことです。イエスさまはいつかは分かりませんが。もう一度帰って来られます。ですから私たちはいつでもイエスさまを喜んでお迎えできるように、心の目を覚まして、準備をしていなければなりません。ここで大切なのは思慮深いことと忠実なことです。 □十月三十日(月) マタイ二五1〜13  十人の女の人たちはみんな寝てしまいました。でもこの十人を分けたのは油の用意がしてあったかどうかということです。油の用意をしていた女たちは思慮深い(よく考えて準備ができている)人たちと呼んでいます。あなたは準備ができていますか。 □十月三一日(火) マタイ二五14〜30  一タラントは二十年分の給料にあたるような大金でした。主人はそんなにたくさんを預けたのです。それはその主人がしもべたちを信頼していたからでもあります。しもべたちも信頼に答えました。どれだけもうけたかということより、忠実であったかどうかが大切でした。 □十一月一日(水) マタイ二五31〜46  イエスさまがお帰りになるとき、イエスさまは人間を天国に入る人とそうでない人に分けます。ここでその決め手になったのは、それまでの地上の歩みの中で小さい人・弱い人の一人に愛を注いだかどうかということでした。 □十一月二日(木) ルカ十六10  小さいことを一生懸命きちんとできると言うことはとても大切なことです。だれも見ていないような、つまらなく見えるようなことでも一生懸命、忠実にがんばるということです。小さなことをきちんとする人に神さまは大きな仕事もまかせてくださることでしょう。 □十一月三日(金) 1コリント四1〜2  神さまは私たちにいろいろなものをゆだね、まかせてくださっています。なかでも神さまのすばらしい福音、イエスさまの救いを私たちはゆだねられているのです。そして神さまはその恵みを用い、またゆだねられている福音を伝えていくことを願っておられます。 □十一月四日(土) ガラテヤ五22〜23  ここには聖霊が私たちのうちに結ばせてくださる御霊の実があげられています。今週何度も取り上げてきた忠実もその中の一つです。それはわたしたちのがんばりから生まれるものではなく、神さまが私たちの心に与えてくださるものなのです。  みんなは聖書の中の人物でだれが好きですか。アブラハムとかダビデとか、ペテロとかヨハネとかパウロとかみんながよく知っている人物もたくさんいるけれど、あまり知られていない人たちもたくさんいます。実は名前の残っていない人たちはもっとたくさんいるでしょう。でもみんな神さまの大切な宝物です。私たちも全然有名ではないかもしれません。でも天地を作られた神さまが私たちのことを知っていてくださるのです。これってすごくないですか? □十一月五日(日) 使徒行伝四32〜37  地中海の東の方にクプロ(キプロス)という島があります。大きな島です。この島でイスラエルのレビ族の子孫としてヨセフという男の子が生まれました。(ヨセフって聖書の中に何人も出てきますね)。このヨセフがイエスさまを信じてクリスチャンになりました。そしてみんなからはバルナバ(慰めの子)と呼ばれていました。優しい人だったのでしょうね。彼は思い切って喜んで献げる人でもありました。 □十一月六日(月) 使徒行伝九1〜9  さてサウロという人がいました。この人はクリスチャンが大嫌いでした。そしてクリスチャンがいると聞くとどこにでも出て行って、クリスチャンを捕まえ、こらしめました。ある時サウロはダマスコの町に向かっていました。けれどもイエスさまがサウロに出会ってくださいました。 □十一月七日(火) 使徒行伝九10〜19  ダマスコにアナニヤというお弟子さんがいました。神さまはアナニヤに現れて、サウロのところに行ってお祈りをしてあげなさいとおっしゃいました。アナニヤはこわかったでしょう。けれども神さまのおっしゃるとおりにしてサウロに手をおいておいのりしてあげました。サウロはイエスさまを信じる人になりました。 □十一月八日(水) 使徒行伝九19〜31  イエスさまを信じたサウロはエルサレムに行ってクリスチャンの仲間に入れてもらおうとしました。でもみんなサウロのことを信じてくれません。でもバルナバがサウロのためにみんなを説得してくれたのでした。   □十一月九日(木) 使徒行伝十一19〜26  エルサレムよりもずっと北にアンテオケという町がありました。その町に神さまを信じる人がたくさん生まれたとき、エルサレムの教会は新しくうまれたアンテオケの教会のためにバルナバを送りました。バルナバはサウロを連れてきてアンテオケで一緒に教会の仕事をしました。 □十一月十日(金) 使徒行伝十三1〜4  アンテオケの教会は今度はお祈りしてバルナバとサウロをまだイエスさまのことを聞いたことのない人たちのために送り出しました。バルナバがサウロと一緒に行ったのはどこだったか知ってる? そうバルナバの故郷のクプロ島でした。 □十一月十一日(土) 使徒行伝十五36〜41  バルナバたちはアンテオケに帰って来ていました。もう一度伝道旅行に行くことになった時、バルナバは前の旅行で途中で帰ってしまった、いとこのマルコも連れて行ってあげたいと思いました。バルナバの忍耐力と人を受け入れ育てるというその大きな役割を思います。  今週はテモテのことを学びました。テモテはお父さんはギリシャ人、お母さんはユダヤ人でした。テモテは小さいころから愛と祈りの中に育てられていきます。パウロはそんなテモテに出会ったときに、このテモテをイエスさまのことを伝えるお仕事のために育てていきたいと思います。そして、第二回の伝道旅行からテモテを連れて行きます。パウロと一緒に旅行をしながらテモテは訓練され、神さまのお仕事をするために整えられていきます。  今週読むテモテ第二の手紙はパウロが死ぬ直前にろうやの中から若いテモテに書いた手紙です。 □十一月十二日(日) 2テモテ一1〜8  おばあちゃんのロイスとお母さんのユニケの信仰の中でテモテは育っていきます。パウロはテモテを神さまのために特別な仕事をする人として選び、そして神さまはテモテに力と愛と慎みの霊を注いでくださいました。そんなテモテのことがパウロは大好きでした。パウロはいつもテモテのためにお祈りをしていました。 □十一月十三日(月) 2テモテ一9〜18  パウロは神さまが自分を選んで特別な仕事を任せてくださっていることを知っていました。それはパウロが偉かったからではなく、神さまの御計画と恵みによることでした。そしてどんな苦しみの中にあっても、神さまは自分を守ってくださると信じていました。 □十一月十四日(火) 2テモテ二1〜13  神さまがパウロに手渡してくださった福音は人になってこの世に来て、死んだけれどもよみがえってくださった、真実なイエスさまのことを思っていることでした。そしてパウロはまた人がどんなにパウロを縛り上げても、神の言葉をしばって閉じこめてしまうことはできないことを知っていました。 □十一月十五日(水) 2テモテ二14〜26  パウロは言葉に気をつけるようにとテモテに書き送ります。そしてテモテに、神さまの大切な仕事をいつでもまかせていただけるように、準備していることが大切であることを語ります。 □十一月十六日(木) 2テモテ三1〜17  パウロはこれから時代がますます悪くなっていくことを知っていました。けれどもそんな中で、テモテを守り、神さまのために喜んで生きることができるようにするのは聖書の言葉だとパウロは言います。みんなも聖書の言葉を大切に読んでいこうね。 □十一月十七日(金) 2テモテ四1〜8  パウロは自分がもうすぐ死ぬこと、イエスさまを信じてみんなに話したために死刑になることも知っていました。けれどもパウロには悔いはありません。そして遺言のようにテモテに語ったのは「御言を宣べ伝えなさい」ということでした。 □十一月十八日(土) 2テモテ四9〜22  パウロがもうすぐ死刑になると言うときには大勢の弟子たちがパウロから離れていきました。でもパウロは御言葉を語りつづけました。パウロは神さまが自分を天国に導いてくださることを知っていました。そしてパウロはテモテのために祝福をお祈りしてこの手紙を終わるのです。  プリスキラ(またはプリスカ)とアクラはユダヤ人でしたが、もともとはローマに住んでいました。プリスキラが奥さんで、アクラがだんなさんです。二人の仕事は天幕造り(テントを作る仕事)でした。ところがユダヤ人たちが嫌いな皇帝が出てきたときに、ローマから追い出されてコリントに来たのです。二人がいつ、どこでイエスさまを信じたのかよく分かりません。でもローマから追い出されてギリシャのコリントに来たことは、彼らの人生を大きく変えていきました。彼らは生涯の友だちとなったパウロと出会うのです。 □十一月十九日(日) 使徒行伝十八1〜4  パウロは第二回目の伝道旅行の途中でした。大きな町・学問の町だったアテネを離れて、次に訪ねたのがコリントだったのです。でもこの時にはパウロはそれまで一緒に旅をしていたシラスやテモテとも分かれていましたし、とても苦しい、落ち込んでいる時だったようです。アクラたちと出会ったことはパウロにとっても大きな喜びとなりました。 □十一月二十日(月) 使徒行伝十八5〜11  パウロはアクラたちと一緒にテント造りの仕事をしました。けれどもテモテたちがピリピなどからの献金を持って来てくれましたから、御言を伝えることに専念します。パウロにも恐れがありました。けれども神さまは恐れるなとおっしゃいました。 □十一月二一日(火) 使徒行伝十八12〜23  パウロは一年半コリントで伝道したのですが、反対運動が起こってコリントにいられなくなります。パウロはプリスキラとアクラを連れてエペソに向かい、二人をそこに残して自分はエルサレムに向かって旅をし、またアンテオケに戻ります。 □十一月二二日(水) 使徒行伝十八24〜28  パウロがエペソからいなくなってからアポロという人がエペソにやって来ます。でも、イエスさまのことできちんと知っていないことがあったので、アクラたちはパウロから聞いていたイエスさまの話をしてあげました。アポロはますますすばらしい神さまの人になりました。みんなもイエスさまの話してあげられる? □十一月二三日(木) ローマ十五30〜33  パウロは三回目の伝道旅行の途中で、エルサレムに行こうとしていました。パウロはローマのクリスチャンの人たちに、私のために神に祈ってほしいとお願いします。みなさんもぜひ教会の先生たちのためにお祈りしよう。みんなも誰かにお祈りしてもらおう。 □十一月二四日(金) ローマ十六1〜2  パウロはここでフィベを紹介します。パウロもフィベには助けてもらっていましたし、他にも助けてもらった人はたくさんいました。みなさんは誰かに助けてもらったことがありますか。誰かを助けたことがありますか。 □十一月二五日(土) ローマ十六3〜4  この手紙を書かれた時にはアクラたちはまたローマにいました。パウロはアクラたちによろしくと伝えます。プリスカとアクラはパウロの救うために自分の命も喜んで犠牲にしようとした人たちでした。イエスさまに命を捨てていただいた私たちは誰かのために命を捨てるのです。    今週はピレモンのことを紹介したいと思います。ピレモンはコロサイの教会の中心人物の一人でした。パウロはこの小アジアの教会のことを覚えて「コロサイ人への手紙」を書いています。実はこのピレモンへの手紙はもうおじいさんになったパウロがコロサイ教会のリーダーの一人だったピレモンに、ろうやの中から書き送った手紙なのです。この手紙の中でパウロはピレモンを信頼して、彼に一つのとても個人的なお願いをしています。どんなお願いだったでしょうね。 □十一月二六日(日) ピレモン1〜7  パウロにとってピレモンは「愛する同労者」でした。同じ思いで、一つの仕事に参加している仲間ということです。そしてパウロはお祈りのたびにピレモンのことを思い起こし、神さまに感謝しています。ピレモンは隠れた誰も見ていないようなところでみんなのために良いことをしていました。多くの人たちを愛して、みんなに喜びと慰めを与える・・・というような人物だったのです。 □十一月二七日(月) ピレモン8〜14  パウロのところにオネシモという人物が来ていました。このオネシモは何とピレモンのところの奴隷でした。でもピレモンに迷惑をかけ、ピレモンのところから逃げ出したのです。でもこのオネシモがろうやでパウロに出会ってイエスさまを信じたのです。 □十一月二八日(火) ピレモン15〜25  パウロはオネシモにピレモンのところに帰るようにと語ります。そしてこうしてピレモンにもオネシモを「私と同じように受け入れてほしい」とお願いする手紙を書くのです。何かオネシモがお金を取ったりと言うことがあったら、私が代わりに払うからとさえ言うのです。 □十一月二九日(水) 2コリント一3〜7  コリントの教会にパウロは手紙を書きます。いろいろ大変なことがあるけれど、苦しいこと・つらいこと・悲しいことがあればあるほど、また神さまの慰めと救いも満ちあふれるのだとパウロは言います。パウロ自身がそれを経験していたのです。 □十一月三十日(木) 2コリント二1〜4  パウロはこの手紙の前にとても厳しい手紙を書いていました。コリントの教会に困ったことがたくさんあったのです。「このままではいけない」コリントの人たちに何とか分かってほしいと泣きながら手紙を書いたのです。 □十二月一日(金) 2コリント二5〜11  コリントの教会にとても悪いことをした人たちがいたのです。でもパウロはその人たちが自分たちの罪を悲しんでいるのを聞いて、もうゆるして、受け入れてあげてほしいとお願いするのです。 □十二月二日(土) 2コリント二12〜17  パウロには神さまから任された大切な仕事がありました。イエスさまのことをみんなに伝えていくことです。イエスさまの福音は信じないと滅びるというとても厳しいメッセージでもありますが、信じる人にとっては命を豊かにもたらすメッセージでした。パウロはどこにいるときにも真心から御言葉を語ったのです。  十二月になりました。教会では今日からアドベント(待降節)と言って神の子のイエスさまが人間になってこの世に来てくださったクリスマスを待ち望む大切な季節になります。教会でもクリスマスの準備が忙しいと思います。みんながんばってね。クリスマスはクリスチャンでなくても多くの人たちの心と思いがイエスさまに向いていく時でもあります。お友だちをたくさん教会に誘えるといいね。それからこのクリスマスに洗礼を受けるお友だちもいるかもしれないね。その準備が守られますように。 □十二月三日(日) ルカ一5〜17  ザカリヤとエリサベツは神さまを愛する正しい人たちでした。けれども二人には子どもがいません。二人はそのためにお祈りしていましたけれど、もうおじいさんとおばあさんになっていました。けれども神さまは二人にすばらしいニュースを届けてくださいました。「男の子が生まれる」とすばらしい知らせでした。そしてその男の子には大事な大事な仕事があったのです。 □十二月四日(月) ルカ一18〜25  ザカリヤは天使が来て、「男の子が生まれる」とすばらしい知らせをもって来ても信じられませんでした。ありえないと思ったのです。でも神さまの言葉は必ずその通りになります。ザカリヤは信じなければなりませんでした。 □十二月五日(火) ヘブル四12  神さまの御言には力があります。そして神さまの言の前に出ると私たちの心の中にあるものが一体何であるのかが分かってしまいます。ザカリヤは神さまのお仕事をしていたし、お祈りもしていたけれど、神さまの御言の前に立った時にザカリヤの心の弱さ・不信仰が見えてしまったのと同じです。 □十二月六日(水) 1ペテロ一17〜21  私たちは神さまの前におそれの心をなくしてはいけません。神さまはイエス・キリストという大きな犠牲を払って私たちを救ってくださいました。私たちの神さまは力と愛にあふれた神さまです。この神さまを私たちは信じているのです。 □十二月七日(木) 1ペテロ一22〜25  目に見える世界はみんな変わっていきます。けれども神さまの御言は決して変わることはありません。いつでも神さまの御言は有効ですし、古くなってしまうことはないのです。そして私たちはこの変わることのない御言を信じて救われ、新しく生まれたのです。 □十二月八日(金) エペソ一15〜23  神さまはとても大きく力のある方です。神さまの力は私たちの思いをはるかに越えています。そして神さまは信じる人を通して働いていかれます。あなたが信じるときに神さまの大きな力を見、経験することができるでしょう。 □十二月九日(土) マタイ九27〜31  「私にそれができると信じるか」とイエスさまは目の見えない人たちにお聞きになりました。二人は「主よ、信じます」と答えました。あなたは神さまに何をお祈りしていますか。それは神さまの御心にかなったことですか。それができると信じますか?  みなさんの教会ではアドベント・クランツを飾っているでしょうか。四本のろうそくをこのアドベントの期間に一本ずつつけていきます。そのようにして光として来てくださったイエスさまのお誕生を待ち望むのです。今日は二本ろうそくがつくはずです。楽しみですね。  イエスさまのお父さんになったヨセフとお母さんになったマリヤはエルサレムのずっと北の方のガリラヤ地方、ガリラヤ湖よりも西のナザレという村に住んでいました。地図で見ておいてくださいね。二人は有名人でもなく、お金があったわけでもありません。でも神さまはこの二人をイエスさまがこの世に来られる時に特別な役割を果たすように選ばれたのです。 □十二月十日(日) ルカ一26〜38  まだ結婚していなかったマリヤがイエスさまのお母さんになる、それは「おめでとう」と言われても不安もあったでしょう。けれどもマリヤは神さまに「私は主のはしためです。お言葉どおりに」と答えるのです。   □十二月十一日(月) ルカ一39〜45  マリヤは神さまの言葉をそのまま信じました。語られた神さまは、それをすることがおできになると信じたのです。だからマリヤはイエスさまのお母さんになることができたのです。しんせきのエリサベツもまりやこのことを心から喜びました。 □十二月十二日(火) ルカ一46〜56  マリヤは神さまをたたえて賛美します。マリヤは神さまが先祖たちとの約束に基づいて、大きなことを始めておられることを感じていました。そしてそんな神さまの働きの中に自分が加えられていることを思うと感謝しないではおられなかったのです。 □十二月十三日(水) ルカ一57〜66  エリサベツに子どもが生まれました。みんなが喜び、すばらしいことをしてくださった神さまをたたえました。ゼカリヤとエリサベツは神さまに言われたとおりに、その赤ちゃんを「ヨハネ」と名づけました。バプテスマのヨハネの誕生です。このヨハネは救い主をお迎えする準備をするようにみんなに勧めた人です。 □十二月十四日(木) ルカ一67〜80  ゼカリヤがまたしゃべれるようになった時、みんなの前で心から神さまを賛美しました。ゼカリヤは生まれたばかりの赤ちゃんのヨハネが大きくなってどんなに大切な仕事をするのか知っていたのです。「罪のゆるしによる救い」が来ようとしていました。 □十二月十五日(金) 創世記十八9〜15  エリサベツもザカリヤも昔、アブラハムとサラに起こったことを思い出していたはずです。サラもまた神さまにはできないことはないということを経験した人でした。子どものいなかった九十歳のサラにイサクが生まれたのですから。 □十二月十六日(土) ヘブル十一8〜12  サラも赤ちゃんが生まれると言われても最初は信じられなかったと思います。けれどもサラも、約束してくださった神さまは絶対にうそはつかない真実な方であることを信じたのです。そして神さまはアブラハムとなさった約束を実現してくださったのでした。  アドベントも第三週になりました。クリスマスは何が一番楽しみですか?やっぱり、何と言ってもプレゼントかもしれないですね。今年は何がもらえるかなあと思うとドキドキして早くクリスマス来ないかなあと思います。クリスマスは確かにプレゼントの日です。どんなおもちゃよりもどんな洋服やアクセサリーよりもずっとすばらしい、いいえ、比べものにならないすばらしいプレゼントを神さまはくださったのです。それがイエスさまです。私たちの罪がゆるされて神の子となるために、そして神さまのすばらしさを知るためにイエスさまは人になってこの世に来てくださったのです。 □十二月十七日(日) ルカ二1〜7  ローマの皇帝が人口調査を命令しました。北のほうのナザレに住んでいたヨセフでしたが、南のベツレヘムまで行かなければなりませんでした。お腹の大きなマリヤを連れての旅は大変だったでしょう。でもそこにも神さまの不思議なご計画がありました。 □十二月十八日(月) ヨハネ一1〜5  神と一緒におられた神のひとり子イエスはまさに世の光でした。真っ暗は暗いし、さびしいし、心配になるよね。何にも見えないから。でも、どんなに真っ暗でも小さな明かりが一つあるだけで明るくなります。どんな悪の力も光であるイエスさまに打ち勝つことはできません。 □十二月十九日(火) ヨハネ一6〜8  バプテスマのヨハネのことが取り上げられています。ヨハネはイエスさまのすばらしさを証しし、みんながこのすばらしいお方のところに行くように励ますためにこの世に来たのです。私たちもイエスさまのすばらしさを証しできるでしょうか。 □十二月二十日(水) ヨハネ一9〜13  イエスさまは神の子であられたのに人になってこの世に来てくださいました。人は自分の努力やがんばり、お金などによって神の子になることはできません。このイエスさまを信じる人に神さまは神の子になる力を与えてくださるのです。 □十二月二一日(木) ヨハネ一14〜18  イエスさまは人になって私たちのところに来てくださいました。そして私たちはイエスさまを見るときに私たちを造り、愛していてくださる神さまがどんなにすばらしく愛に満ちたお方かが、分かるようになってくるのです。 □十二月二二日(金) マタイ一13  聖書はイエスさまのことをインマヌエルと言います。これはイエスさまの一番大切な姿のことを言っている言葉です。「神が私たちと共にいてくださる」、そのことがイエスさまが来てくださったことによって本当になったのです。そしてどんなに困ったこと大変なことがあってもイエスさまが一緒にいてくださったら大丈夫なのです。 □十二月二三日(土) ピリピ二6〜7  自分が神さまになろうとする人はたくさんいるかもしれません。けれどもイエスさまは神であられたのに人になってこの世に来てくださいました。それほどに私たちのことを愛していてくださるのです。  クリスマスおめでとう!神さまはいろいろな恵みを私たちにたくさんくださっていますが、このイエスさまにまさる大きな恵みはありません。  クリスマス。このすばらしいプレゼントを神さまからいただいている私たちはみんなにもこのことを知らせてあげたいですね。また神さまから恵みをいただき、みんなからプレゼントをもらってと受けるばかりではなく、誰かに何かをプレゼントしてあげることができないか考えてみましょう。プレゼントをもらうのもうれしいことですが、プレゼントを誰かに渡してその人の喜ぶ顔を見るという喜びも経験してほしいと思います。 □十二月二四日(日) ルカ二8〜14  イエスさまがダビデの町ベツレヘムでお生まれになったその夜、野原で羊の群れの番をしていた羊飼いたちに、天使が来て、イエスさまのお誕生のすばらしいニュースを伝えました。この方はみんながずっと待ち望んでいた救い主。あなたがたのための救い主だと天使は伝えました。天使たちの大合唱が続きました。 □十二月二五日(月) ルカ二15〜20  「さあ、行って、見てこよう」と羊飼いたちは言いました。赤ちゃんは本当に馬や羊のえさを入れる飼い葉おけに布に包まって寝かされていました。きれいな服やすごいお祝いはなかったけれど、羊飼いたちは心から救い主のお生まれを喜びました。 □十二月二六日(火) イザヤ九1〜5  イエスがお生まれになる七百年前に活躍した預言者イザヤはイエス様が光として来られる事を預言していました。どんな真っ暗に思えるような暗い心で、暗い世界、暗い時代を生きていてもイエスさまは光として来てくださって喜びを与えてくださいます。 □十二月二七日(水) イザヤ九6〜7  イエスさまが生まれてくださったのは私たちのためでした。ここにはイエスさまのすばらしいさが四つの名前で表されています。神さまは何でこんなすばらしいことをして下さったのでしょうか。神さまは熱心、本気で私たちを愛し、本気で救おうとされたからです。 □十二月二八日(木) イザヤ十一1〜5  エッサイとはダビデのお父さんです。ダビデの子孫として生まれてくださいました。つまり王さまとして来てくださったのです。このお方には主の霊がとどまり、神さまを知り、神さまを恐れて正しく生きるということがどういうことかを示してくださいました。 □十二月二九日(金) 1ヨハネ四9〜10  私たちは罪を犯し、神さまから離れていました。けれども神さまはそんな私たちを愛してくださいました。神さまの愛はどこでわかるでしょうか。それは神さまは私たちのために死ぬためにその大事なひとり子イエスをこの世に送ってくださったことで分かるのです。 □十二月三十日(土) 1ヨハネ四11〜12  神さまは私たちを愛してくださいました。神さまから愛された私たちは今度はお互いに愛し合います。そして神さまが愛してくださったように愛し合っていくとなおさら神さまの愛が分かるようになります。神さまが分かるようになるのです。