聖書だ! ワクワク

 教会でみんなの前でお祈りするのって好きですか。一人だったらいいけど、みんなの前でお祈りするのは苦手という人が多いかも知れません。なぜみんなの前でお祈りするのが恥ずかしいのでしょうか。それはかっこいいお祈りができなくて、みんなにばかにされたらどうしようという恐れがあるのかもしれません。でも大切なのは大人のようなかっこいい、整ったお祈りができるかどうかということではありません。みんなが神さまの前に正直に真実にありのままで出るかどうかということです。みんながお祈りするのは周りにいる誰かではなく、天のお父さんだからです。


 六月二五日(日)    ルカ十八9〜14

     パリサイ人はお祈りの名人だったでしょう。真面目でみんなからもほめられていたでしょう。自分でも自分は偉いと考えていました。でも取税人はみんなからも悪いやつだと言われていました。「罪人のわたしをあわれんでください」と祈る祈りに神さまはこたえてくださいました。

 六月二六日(月)    1ペテロ五5〜7

     高ぶる、いばる、自慢するということは神さまの前でもいばることになります。神さまは全部をご存じなのですから、神さまの前に正直に自分の弱さだとか罪深さを認めて神さまに助けを求めましょう。神さまは心配して、助けてくださいます。

 六月二七日(火)    ヤコブ四1〜10

     求めても与えられないのは自分のしか考えないからであり、自分が楽しんで、得をすることばかり考えているからです。神さまは私たちの祈りにこたえて私たちに恵みを注ぎたいと願っておられます。けれども水が低いところにしか流れないように、私たちが自分を低くしないと、恵みが流れてこないのです。

 六月二八日(水)    イザヤ五七14〜21

     神さまは聖なるお方です。偉大なお方です。高いお方です。けれども、同時に神さまはへりくだる人、自分の罪を認めて神さま、助けてくださいとあわれみを求める人のところに来てくださってその人の心の中に住み、その人を救ってくださるのです。

 六月二九日(木)    マタイ九9〜13

     マタイの家でパーティーがあったとき、罪人と言われている人たちがたくさん集まっていました。でもイエスさまはこの人たちは自分が罪人であること、自分の心が病気であることが分かっている。そして助けを求めている。私はこういう人たちを神さまのところに招くために来たんだとおっしゃったのです。

 六月三十日(金)    マタイ二三1〜12

     パリサイ人たちはみんなからほめられること、先生と呼ばれることが大好きでした。自分は先生だから、面倒くさいことはみんな他の人にやらせました。けれどもイエスさまは仕える人、自分を低くする人になりなさいとおっしゃいました。

 七月一日(土)    マタイ二三25〜28

     イエスさまはパリサイ人たちも人から見えるところでどんなに立派に見せたとしても、心の中はきたない物がいっぱいだとおっしゃいました。本当はパリサイ人たちも自分が罪人であることをしらなければならなかったのです。