聖書だ!ワクワク  四月ですね。学校も始まって、みんなもひとつずつ学年が上がります。今年もがんばっていきましょう。聖書も少しずつ読んでいきます。読んでから、その呼んだみ言葉を通して、神様がどんなお方かを考えてみましょう。そして、そのあとで、みんなの気持ちを神様にお祈りしてください。  朝でも夜でもいいですが、読む時間を決めておくことが、忘れないで聖書を読み続けるコツです。 四月六日(日)  創世記一1〜2  聖書は「はじめに神は」という言葉で始まります。人間が神様を考え出したのではありません。まだ何もない昔から神はおられました。そして、目に見えるものも目に見えないものも全部を造られたのです。神様からすべての物事は始まっていくのです。何もないところからでもすべてを造られる力あるお方を私たちは信じているのです。 四月七日(月)  創世記一3〜5  神が世界を造られた第一日目、神さまは「光あれ」とおっしゃいました。すると真っ暗だったところが明るくなりました。神さまはそのみ言葉で世界を造られたのです。神さまのおっしゃる通りに世界はできていったのです。 四月八日(火)  創世記一6〜8  二日目、神さまは大空を造られました。大空の下にも大空の上にも水がありました。大空の上の水は時々、雨になって落ちてきますね。私たちは神さまが大空を造ってくださったことを心から感謝したいと思います。悲しいときにも空を見上げると元気になりますよね。 四月九日(水)  創世記一9〜13  三日目。神さまは海と陸を造り、緑の草やきれいな花や、木や、いろいろなくだものをたくさん造られました。神さまが造られた世界は色とりどりになりました。神さまのなさることは本当にすてきですね。 四月十日(木)  創世記一14〜19  四日目。大きな光と小さな光を造られました。大きな光って何ですか?小さな光は何ですか?それからたくさん星も造られました。不思議ですね。太陽はただ明るいだけでなく、私たちを暖めてくれます。暗いはずの夜も、月や星があると明るくなります。 四月十一日(金)  創世記一20〜23  五日目。神さまは海の魚や、空の鳥を造られました。魚は海を気持ちよく泳ぎ、鳥は空を飛びました。魚も鳥も神さまを賛美しています。海も空もすっかりにぎやかになりましたね。 四月十二日(土)  創世記一24〜31  六日目です。神さまはいろいろな動物を造られました。神さまがどんな動物を造られたか考えてみましょう。それからもうひとつ。神さまは特別なものとして人間を造られました。神さまの造られた世界はとってもすてきでした。造った神さまがすてきだからですね。 聖書だ!ワクワク  学校は慣れたでしょうか。新しいクラスになったお友だちもいるでしょうね。友だちはたくさんできましたか。まだの人は、すてきな友だちができるように神さまにお祈りしようね。そしてみんなのそばにいる人に、勇気を出して話しかけてみよう。きっと神さまは、みんなにすばらしいお友だちをくださるはずです。  聖書読んでますか?まとめて一週間分読むよりも、コツコツと毎日読んでいこうね。 四月十三日(日)  創世記二1〜3  さて七日目です。神さまはもう全部を造り終わって、休まれました。疲れたからではありません。神さまはこの日を「聖別」されたのです。これはこの日を特別な神さまの日と決められたということです。だから私たちは今でも一週間に一度、他の仕事をやめて神さまを礼拝するのです。 四月十四日(月)  創世記二4〜14  神さまは人を造る時に、土のちりで造られました。だから人間は弱さももろさも持っています。でも神さまはその人間に命の息を吹きいれてくださいました。神さまの命で人は生かされているのです。そして神さまは人をとても美しいエデンの園に置かれました。 四月十五日(火)  創世記二15〜17  神さまは人に仕事を与えられました。エデンの園を耕し、守ることです。これはとても楽しい仕事でした。それから、神さまは善悪を知る木からは食べてはいけないとおっしゃいました。私たちも神さまがしてはいけないとおっしゃることはしてはいけません。 四月十六日(水)  創世記二18〜25  神さまは人はひとりではよくないとおっしゃって、女の人を造られました。神さまが男と女を造られたのは、一緒に神さまのために働き、助け合うためです。二人は心から愛し合っていました。 四月十七日(木)  エペソ五22〜24  パウロさんはエペソ教会の奥さんたちに、自分の夫に仕えなさいと教えました。神さまの言うことは何でも聞くけど、自分の夫の言うことは聞きたくない、夫には仕えたくないという人がいたのでしょうね。でもそれは神さまが期待しておられることでした。 四月十八日(金)  エペソ五25〜30  パウロさんは、夫たちには、自分の妻を愛しなさいと教えました。これは妻が夫に仕えるよりも大きなことです。愛するとはただ好きということではありません。自分を愛するように、また命がけで、心から自分の妻を大切にすることだからです。 四月十九日(土)  エペソ五31〜33  みんなも大人になったら、お父さんやお母さんから離れていきます。そして神さまが用意してくださるすてきな誰かと結婚するでしょう。愛し合い、仕え合う、すてきな夫婦になれるといいね。 聖書だ!ワクワク  聖書を読んだら、神さまのことを考えよう。そしてもう一度、心に残るみ言葉を何度も何度も読み直してみよう。声に出して読んでみよう。見ないで言えるようになるくらい、読んでみよう。悪魔は私たちが聖書を読まないことを願っている。読んだとしても、聖書をパタンと閉じたら全部忘れてしまうようにしたいと思っている。だから時々、み言葉を思い出そう。今日、読んだ聖書の言葉ってどんなのだったかなと思い出してみよう。きっと力がわいてくる、悪魔に負けない、光の子になれる。 四月二十日(日)  創世記三1〜7  へびが女のところにやってくる。ほんとに神さまがそんなこと言ったの?神さまはうそ言ってるんだよと、そそのかした。これを食べたら神さまみたいになれる・・・女は誘惑に負けてしまった。男も誘惑に負けてしまった。 四月二一日(月)  創世記三8〜13  神さまがしてはいけないとおっしゃったことをしてしまったとき、男も女も神さまから隠れようとします。正直にごめんなさいとも言えません。女が悪い、へびが悪い。神さまはどんなに悲しかっただろうね。 四月二二日(火)  創世記三14〜15  神さまはへびをのろわれ、そして言われます。お前のかしら(頭)は砕かれる、こなごなにされる。そして、女のすえ(子孫)として生まれたイエスさまは本当に悪魔を打ち砕いてくださったのです。 四月二三日(水)  創世記三16  女にはお産の苦しみが与えられます。男と女の関係がおかしくなってきます。お母さんがみんなを産むということは、大変なことです。みんなが生まれて本当にうれしかったはずです。でもね。お母さんって赤ちゃんを産むときに痛いんだって。みんなもお母さんや教会の先生に聞いてごらん。 四月二四日(木)  創世記三17〜19  男は本当は女を守ってあげなければなりませんでした。でも女と一緒に悪魔のいいなりになってしまいました。男は本当は楽しいはずの仕事が苦しくなります。そして、やがては人は死ぬことになります。死んで土に帰っていくのです。 四月二五日(金)  創世記三20〜21  人は自分の裸を隠すためにいちじくの葉っぱを使いました。でも神さまは二人のために皮の着物を作ってくださいました。暖かいすてきな着物です。でもそのためには、動物が死ななければなりませんでした。 四月二六日(土)  創世記三22〜24  罪を犯した二人はもう命の木の実は食べられません。すばらしいエデンの園にも住むことができません。でも、イエスさまを信じる人はやがていのちの木の実を食べることができます。神さまの造られるすばらしい天国に住むことができるのです。 聖書だ!ワクワク  あーあ、アダムとエバのおかげで大変なことになったと言わないで。きっと私たちでもやっぱり罪を犯していたと思うから。でもそれなら、何で神さまは私たちが罪を犯さないように、犯せないように造らなかったのだろう。神さまは私たちをロボットにはしたくなかった。何も考えないお人形にはしたくなかった。神さまを好きとも言える、嫌いとも言えるそんなものとして造って、そんな自由をもった人間が神さま愛してますと言うことを願っておられたのです。 四月二七日(日)  創世記四1〜7  アダムとエバには二人の子どもが生まれます。カインとアベルです。アベルのささげものは喜ばれたのですが、カインのささげものは神さまに受け入れていただけません。神さまはカインの心を見ておられました。そして、神さまはカインに考えてほしかったのでしょうね。 四月二八日(月)  創世記四8〜16  カインは怒っていたでしょう。アベルをねたみ、うらんでいたでしょう。そして、その結果は恐ろしいものでした。カインはとうとう弟アベルを殺してしまいます。世界で最初の殺人事件が起こります。みんなの心は大丈夫ですか? 四月二九日(火)  創世記四17〜24  カインの子孫の中には優秀な人たちがたくさんいました。でも彼の怒りや恨みといった闇の力も代々受け継がれていきます。もっともっと強力になって受け継がれていきます。この闇の力から救うことができるのは神さまだけです。 四月三十日(水)  創世記四25〜26  アダムとエバは二人の子どもをなくしますが、神さまは二人にセツを与え、また孫のエノスを与えてくださいます。エノスが生まれたころから人間は神さまを呼び、祈るようになります。一番大切なことが何かがまた分かってきたのです。 五月一日(木)  創世記五1〜5  アダムは神の形に造られました。そして神さまはアダムを祝福してくださいました。でもアダムたちが罪を犯したとき、その子どもたちはアダムにそっくりでした。顔かたちだけではありません。罪深さも子どもに伝わっていったのです。 五月二日(金)  創世記五6〜24  「○○歳になって□□を生んだ・・そして彼は死んだ」という言葉が続いていきます。みんな長生きですね。でもやっぱり死んでいきます。ただエノクは特別でした。エノクは神とともに歩んだと聖書は言っています。あなたも神さまとともに歩んでください。 五月三日(土)  創世記五25〜32  ノアの誕生までのことが書かれています。ノアはお父さんたちの慰めでした。どんなに仕事が大変でも家に帰ってノアに会うと元気が出てきたのでしょう。みんなも誰かに元気があげられるでしょうか。 聖書だ!ワクワク  ゴールデンウィークでお休みが続いていますね。こんな時にも教会学校に励んできてくれているみんなすごいぞ!聖書を読んでお祈りをして・・・というと、何で教会に来ないといけないのかなあと思うこともあるかもしれません。だって一人でお祈りして、賛美して、聖書読んで・・・それでいいんじゃないのと思うかもしれません。だって、教会は遠いし、時間かかかるし、帰り遅いし、面倒くさいし、友だちいないし・・・でもね、みんなが教会に来ることを神さまは本当に喜んでおられますよ。 五月四日(日)  創世記六1〜10  人は自分勝手に、自分の好きなように生きていきました。心の中で考えることは自分のことばかり、悪いことばかりでした。神さまは悲しく思われました。でもそんな中でもノアは正しく生きていました。ノアは神さまの喜びでした。 五月五日(月)  創世記六11〜22  神さまは洪水を起こして、悪い人たちをみんな滅ぼしてしまうことに決めました。でもノアは救おうとされました。ノアは正しい人だったからです。神さまは大きな大きな舟を作るようにおっしゃいます。どのくらい大きかったのかな。 五月六日(火)  創世記七1〜16  舟を作るのは大変だったと思います。ノアと家族だけで作るしかなかったでしょうから。そして、舟ができたとき、動物をその中にいれてあげなければなりません。ゆるされた日にちは七日間。ノアは、みんな神さまがおっしゃった通りにしました。 五月七日(水)  創世記七17〜24  動物もノアとその家族も舟に入ったときに、舟の戸が閉ざされて、雨が降り出しました。四十日雨が降って、地上はみんな水で覆われました。箱舟がぽっかり浮かびました。助かったのは箱舟に入った人たちと動物たちだけでした。 五月八日(木)  創世記八1〜12  神さまはノアと家族と動物たちを心にとめていてくださいました。だんだん水が少なくなっていきます。ノアは箱舟からからす、そしてはとを放します。はとの加えていたオリブの若葉、それは希望のしるしでした。 五月九日(金)  創世記八13〜22  洪水が始まったのはいつだっけ?ちょうど一年がたちました。神さまに出ていいよ、と言われて、ノアたちは外に出て行きます。ノアは神さまに感謝のささげものをしました。神さまはとても喜ばれました。 五月十日(土)  創世記九1〜17  神さまはノアたちと約束をされて、特別な約束のしるしをくださいました。きれいなにじです。雲がわいてきて、たくさん雨が降っても、にじを見ると、神さまがもうあの時のような大洪水は起こさないとおっしゃったその言葉が思いだされるのです。 聖書だ!ワクワク  教会って何で行くのかなあ。それはそのことを神さまが願っておられるからです。でも神さまはどこにもおられるのでしょ、どこでも礼拝できるじゃない。そうです。でもね。みんなで集まって礼拝をするからすてきなのです。教会にはいろいろな人たちがいます。年も性別も、性格も趣味もみんな違っています。でもそんな違うみんなが集まって、心をひとつにしてお祈りし、神さまを賛美し、一緒に神さまのみ言葉を聞きます。だからすてきなのです。 五月十一日(日)  創世記十一1〜9  また人がどんどん増えてきました。神さまは人が世界中に広がっていってほしいと思っておられました。でも人々はいやだと思いました。そしてみんなで高い塔を作り出しました。心を合わせて神さまに逆らいました。こういう心の合わせ方は困るよね。 五月十二日(月)  ルカ二四44〜53  イエスさまがよみがえられた後、イエスさまはお弟子さんたちに大切なお仕事をまかされました。でもそのお仕事をするためには神さまから力をいただかなければなりませんでした。「父が約束されたもの」って何だろうね。 五月十三日(火)  使徒一1〜5  神さまの約束だったら絶対に裏切られることはありません。聖霊によってきよくされ、新しくされる、そのすばらしい約束を弟子たちは信じて待っていなければなりませんでした。 五月十四日(水)  使徒一6〜11  弟子たちは田舎の人たちでした。勉強も苦手でした。お金もありませんでした。でもそんな弟子たちが「地の果てまでわたしの証人となる」とイエスさまはおっしゃいました。聖霊が下るときに、そのことが起こるのです。それがイエスさまが地上で最後に弟子たちに伝えられたことでした。 五月十五日(木)  使徒一12〜14  弟子たちはエルサレムに帰って行きました。そしてイエスさまを愛する人たちが百二十人、みんなで集まってお祈りを始めました。心を合わせてひたすらお祈りをしました。神さまのお約束を信じて、お祈りをしました。みんなでお祈りをするってすばらしいことです。 五月十六日(金)  使徒二1〜13  イエスさまが十字架につけられた過越の祭から五十日、ペンテコステというお祭りの日でした。お祈りをしていたイエスさまを信じる人たちの上に聖霊が来てくださいました。みんながいろいろな国の言葉で神さまの話をし始めました。 五月十七日(土)  使徒二14〜21  祭りのために世界中から集まっていた人々はびっくりしました。でもペテロは言いました。「これは旧約聖書の中でヨエルが言っていることです。神さまの霊が注がれたのです。神さまを信じる人はみんな救われる時代が来たのです」。 聖書だ!ワクワク  アブラムさんは神さまの声を聞きました。どんな風に聞こえたんだろうね。心の耳に聞こえたのだろうか。たぶん、神さまは夢や幻の中だとかでアブラムに語られたのかもしれない。私たちはどんな風に神さまの声を聞けるでしょう。大事なことがいくつかあります。もし、神さまを悲しませてしまうような罪があったら、まずおわびすること。心を静かにして神さまのことを思うこと。そしてお祈りして、聖書を読むことです。 五月十八日(日)  創世記十一27〜32  アブラムはカルデヤのウルに住んでいました。ウルは川があって、大きな町があって豊かなところです。でも、神さまはアブラムと家族をそこから導き出されます。カナンの地へ行かせようとされたのです。アブラムたちは途中のハランで止まってしまいました。でも神さまの計画は違いました。 五月十九日(月)  創世記十二1〜3  ハランの町で一緒にいたお父さんのテラが死んでしまいます。アブラムも悲しかったでしょうね。でも神さまはアブラムに大きな祝福を用意しておられました。アブラムが従うなら、世界中の人たちがアブラムによって祝福されるというのです。 五月二十日(火)  創世記十二4〜9  アブラムは神さまのお声を聞いたとき、もう七五歳でした。でもアブラムは神さまのおっしゃったように出発します。あなただったらどうしますか。そしてカナンの地についた時、導いてくださった神さまを心から礼拝しました。 五月二一日(水)  ヘブル十一8  アブラムはカナンの地といっても、カナンの地のどこに行ったらよいのか行き先を知りませんでした。でもアブラムは祝福すると約束してくださった神さまに従って出て行きました。約束してくださった神さまを信じていたからです。 五月二二日(木)  イザヤ五一1〜3  アブラハム(アブラムのこと)から千年以上たって、アブラハムの子孫はとてもたくさんになっていました。神さまはアブラハムの子孫たちにおっしゃったのです。「アブラハムがどのように導き出されたか、忘れてはいけないよ」。 五月二三日(金)  ネヘミヤ九6〜8  神さまはアブラムを祝福すると約束されたように、その子孫のイスラエルの民の数を多くしてくださいました。この地を与えると約束されたように、カナンの地を与えてくださいました。神さまは約束を守られる真実な方だからです。 五月二四日(土)  創世記十二10〜20  アブラムの奥さんのサラはとても美人でした。アブラムは心配でした。みんなが自分を殺すかもしれない。アブラムはちょっとウソをつきました。サラはそのウソのおかげでとても危ないところでした。でも神さまはそんなアブラムとサラをも守ってくださいました。 聖書だ!ワクワク  私たちの歩みの中にはいろいろなことを選ばなければならないときがあります。そういうときに、私たちは、どんな理由で決めるでしょう。どれだけ自分が得をするか。どれだけ自分が疲れないか、楽か、損をしないか、といった自分のことだけしか考えられない人はとてもかわいそうな人です。  なぜアブラムは自分よりも若いロトに最初に選ばせてあげたのでしょう。あなただったらどうしますか。人のことも考え、神さまによくお祈りして決められるといいなあ。 五月二五日(日)  創世記十三1〜7  エジプトはとても豊かな土地だったでしょう。でもアブラムはまたカナンの地に戻ります。そのままエジプトにいてはいけないと思ったのでしょう。アブラムは初めに築いた祭壇に戻って、神さまにお祈りしたのでした。 五月二六日(月)  創世記十三8〜13  アブラムはロトと別れることにします。アブラムもロトも持ち物が多かったからです。ロトはとても豊かで住みやすそうに見える方を選びます。ロトは自分は得をした、賢い、と思ったかもしれません。でもロトには大切なものが見えていませんでした。 五月二七日(火)  創世記十三14〜18  神さまはアブラムにもう一度約束を与えられます。目に見える土地を全部与えること、そしてアブラムからたくさんの子孫ができることです。アブラムはまた神さまに祭壇を築いて、ささげものをささげお祈りをしたのでした。 五月二八日(水)  創世記十四1〜16  戦争が起こりました。そしてロトとその家族もつかまって捕虜になってしまいました。そのことを聞いたアブラムはじっとしていられ ませんでした。すぐに立ち上がって、ロトや町の人たちを救い出したのでした。 五月二九日(木)  創世記十四17〜24  アブラムが大勝利をおさめて帰ってきたとき、神さまにお祈りをするメルキゼデクという王さまがアブラムのところに来てアブラムを祝福しました。アブラムは自分のためにお祈りしていてくれた人がいたことを知ったのです。 五月三十日(金)  マタイ七13  狭い門と広い門、たくさんの人が選ぶ道と通る人の少ない道、どちらを選んだらいいでしょう。どちらが命や救いにつながっているでしょう。狭い門から入れ、とイエスさまはおっしゃいました。 五月三一日(土)  2コリント四16〜18  私たちは何を見ているでしょう。案外、見えるものよりも見えないものの方が大切です。すぐになくなってしまうものではなく、いつまでも続くものにしっかり目を注いでいきたいと思います。そうしたら、裏切られてがっかりさせられてしまうことはないでしょう。 聖書だ!ワクワク  今、お話を聞いているアブラムさんはあとで「信仰の父」と呼ばれるようになり、今のアラブ人もイスラエル人もみんなこのアブラムの子孫になってつながっています。その人は小さく弱かったとしても、神さまはその信じる一人の人を通して大きなことをしてくださるのです。  みんながイエスさまを信じて生きるということも大きなことです。私たちは有名ではないかもしれません。でも私が神さまを信じて生きるかどうかが、世界に、その歴史に大きな変化をもたらすのです。 六月一日(日)  創世記十五1〜6  アブラムには子どもがいませんでした。神さまはアブラムを夜、外に連れ出されます。星を数えてみなさい、とおっしゃる神さまをアブラムは信じます。これを全部造られた神さまなら、本当にそのことをしてくださると信じたのです。 六月二日(月)  創世記十五7〜21  神さまはアブラムにもう一度約束してくださいました。アブラムに子どもが生まれて、増えていくこと、そしてやがて今アブラムがいる場所をアブラムの子孫のものとしてくださることです。苦しいこと・大変なこともあるけれど、神さまの約束は変わらないのです。 六月三日(火)  ローマ三9〜20  まじめな人はいるでしょう。がんばる人もいるでしょう。優秀な人・頭がいい人もいるでしょう。でも神さまの目から見たらみんな罪人で、正しい人は一人もいないのです。あなたには自分の罪が分かりますか? 六月四日(水)  ローマ三21〜31  何かをしたから、何かができたから、義(正しいこと)と認められるのではありません。どこの国の人であっても、イエスさまを信じる人が、その人の力やまじめさではなく、神さまの恵みによって義とされるのです。 六月五日(木)  ローマ四1〜8  アブラハムの場合にもそうでした。アブラハムは一生懸命がんばったから義とみとめられたのではありません。神さまを信じたから義と認められたのです。神さまは信じる人を喜び、救ってくださるのです。 六月六日(金)  ローマ四9〜12  イスラエルの人たちは割礼という特別の儀式を受けていました。そして、割礼を受けていない人は救われないと言う人たちもいました。でも割礼を受けていなくても、救うと約束してくださった神さまを信じる人は義とされるのです。 六月七日(土)  ローマ四13〜25  アブラムもサライもおじいさんとおばあさんになっていました。二人に子どもが生まれるわけがありません。でも神さまは私たちにいのちを与え、何もないところからどんなものでも造り出すことのできるお方です。アブラムはこのお方を信じたのです。 聖書だ!ワクワク  「信じる」って、分かりにくいことばですね。でも、本当はわたしたちがいつもふつうにしていることです。たとえば、みんなはお父さんやお母さんを信じています。そうでなければ、安心してお家でご飯を食べることができないでしょう。椅子を信じています。だから何も心配しないで腰掛けます。もちろん、私たちはそれを普段は考えません。あたりまえと思っていますから。でも、信じることが難しいこともありますね。 六月八日(日)  創世記十六1〜6  アブラムとサライは神さまの約束を待つのがだんだんつらくなってきました。待ちきれなくなってきました。焦ってきました。そこで、自分たちの考え・やり方で子どもを持とうと、女奴隷のハガルにアブラムの子どもを生ませようとします。でも、このことはアブラムたちの家の問題の元になります。 六月九日(月)  創世記十六7〜16  お腹の大きなハガルはサライにいじめられて逃げていきます。でもそんなサライに神さまは出会ってくださいました。神さまはハガルの苦しみも分かっていてくださったのです。サライは神さまのおっしゃるようにアブラムとサライのところに戻ります。 六月十日(火)  詩篇三七1〜6  5節にある「ゆだねよ」とは「神さまにおまかせしなさい」ということです。神さまを信じて、信頼し、おまかせするときに、神さまはすばらしいことをしてくださるのです。 六月十一日(水)  箴言三1〜12  私たちは自分の計画や、考えでいろいろなことをやろうとします。でも神さまは、私たちよりももっと深い考えを持ち、私たちの人生にすばらしいことをしようとしておられるのです。私たちはこの神さまを信じていて大丈夫なのです。信じていることが大切なのです。 六月十二日(木)  箴言十六1〜9  私たちはよく自分が一番正しいと思います。自分は間違っていないと思います。自分の思うようにしてくれないのは困ると思います。でもそれは自分勝手な考えです。神さまに祈り、神さまのなさること、そのやり方に従っていくときに、一番うまくいくのです。 六月十三日(金)  ピリピ四6〜7  いろいろな願いがあり、なかなかうまくいかなくても、あまり心配しないで、まず神さまに感謝しましょう。そして、あなたの心にある願いをお祈りして神さまにお話ししましょう。神さまは私たちの心の中から心配を取り除き、神さまの平安を満たしてくださいます。 六月十四日(土)  エペソ三20〜21  神さまは力のある方です。私たちが何かを求めたり、こうなったらいいなあと願うよりも、また自分の力ややり方でいろいろするよりももっともっとよいことを私たちの生涯の中にしてくださるのです。 聖書だ!ワクワク  聖書で「信じる」と言うときには、それは「こんな風なことが起きると思いこむ」ことではなくて、私たちに約束を与えられる神さまを信用することです。他の人が言っていたとしたら危ないかもしれない。でも、この神さまのおっしゃることだったら、大丈夫だと、このお方について行くことなのです。アブラムもある時は、神さまを信用できなくなったでしょう。でも、もう一度、どんなことでもおできになる力のあるお方を見つめて立ち上がるのです。 六月十五日(日)  創世記十七1〜2  アブラムは自分のやり方で子どもをもうけてから、イシマエルはかわいかったでしょうけれど、神さまとはなんとなくぎくしゃくしていたのかもしれません。でも、十三年がたったときに、神さまの方からアブラムに近づいてくださいました。 六月十六日(月)  創世記十七3〜8  神さまはアブラムに新しい名前を与えてくださいました。アブラハム、それは神さまがアブラムを新しくしてくださるというしるしでもありました。神さまはもう一度、アブラハムに子どもが生まれて、カナンの地が子孫に与えられることを約束してくださいました。 六月十七日(火)  創世記十七9〜14  神さまはアブラハムに、これからずっと男の子は割礼という特別な儀式を受けるように命じられました。それはイスラエルが神さまのものであるしるしであり、他の民と区別するものだったのです。 六月十八日(水)  創世記十七15〜21  神さまはサライにもサラという名前を与え、来年の春、アブラハムとサラの間に赤ちゃんをくださると約束してくださったのでした。それはとても信じられないような、笑ってしまうようなことでした。でも神さまは本気でした。本当にそのことをして下さったのです。 六月十九日(木)  創世記十七22〜27  アブラハムは神さまに言われたように、まず自分と子どもと僕たち、すべてアブラハムの家の男の人たちに割礼という特別な儀式をしました。アブラハムは神さまのお声を聞いたその日のうちに神さまに従ったのです。 六月二十日(金)  創世記十八1〜8  アブラハムのお家に三人のお客さんが来ました。アブラハムは精一杯、ごちそうをし、もてなします。でも実は二人は御使いであり、もう一人は主ご自身だったのです。もしイエスさまがお客さんとしてこられたらどうするでしょうね。 六月二一日(土)  創世記十八9〜15  確かにサラはもうすっかりおばあちゃんでした。でも、神さまはそのサラに赤ちゃんが生まれるとおっしゃるのです。サラは心の中で笑います。あり得ない話だからです。でも神さまはサラの心を見ておられました。神さまが私の心をごらんになったらどうでしょうね。 聖書だ!ワクワク  自分のためではなく、誰かのためにお祈りすることを「とりなしの祈り」と言います。アブラハムはソドムの町のために祈ります。その町に自分のおいのロトがいるからです。あなたは誰かのためにお祈りしたことがありますか。自分が得をすることではなく、あなたの心にとどまっているその人に、神さまの恵みが注がれるように祈るのです。神さまは必死になってとりなしの祈りをするアブラムを喜んで、ロトとその家族を救ってくださったのです。 六月二二日(日)  創世記十八16〜21  神さまはソドムやゴモラの町を滅ぼそうとしておられました。しかし、神さまはその前にアブラハムには話しておこうと考えられました。神さまは今でも私たちが神さまの御前に止まるときに、ご自身の思いを知らせてくださいます。分かるようにしてくださるのです。 六月二三日(月)  創世記十八22〜33  アブラハムはすぐにソドムの町に住んでいるロトとその家族のことを考えたでしょう。ロトとその家族、そして、その町にいるかもしれない正しい人々が滅びることのないように、必死になって祈りました。あなたも今日、誰かのためにお祈りしてください。 六月二四日(火)  創世記十九1〜14  ソドムの町はうわさ通りのとんでもない悪い町でした。ソドムの町を訪ねた御使いたちに乱暴をしようとみんなで集まってきました。御使いはロトに「立ってこの所から出なさい」と言います。悪の中に止まっていてはいけません。 六月二五日(水)  創世記十九15〜23  ロトとその家族は出なさいと言われてもなかなか決心ができません。何も持って行けなかったら、家も財産も全部なくなってしまいます。御使いはそんなロトや家族の手を引くようにして、ソドムを出ます。神さまの深いあわれみでした。 六月二六日(木)  創世記十九24〜29  天から火が下ってソドムとゴモラの町は滅ぼされてしまいます。ロトの奥さんは神さまのおっしゃることをきかなかったので、塩の柱になってしまいます。でもロトと娘たちは助かりました。アブラハムがお祈りしていてくれたからです。 六月二七日(金)  エペソ六10〜17  間違えてはいけません。私たちの敵は悪魔です。そしてその悪魔に勝つためには準備がいります。悪魔を軽く見てはいけません。神の武具を身につけて戦うのです。そうすれば悪魔に打ち勝つことができます。 六月二八日(土)  エペソ六18〜20  パウロは大先生でした。けれども、そのパウロがエペソの教会の人たちに、自分のためにもお祈りしていて欲しいとお願いしました。大胆に、はっきりとイエスさまをお話しできるように祈って欲しい、それがパウロの願いでした。 聖書だ!ワクワク  私たちは毎週献金をささげます。でもお金以上に大切なのはあなた自身です。献金と一緒にあなた自身を神さまにあゆだねし、おささげるのです。アブラハムがささげたのは一番大切な宝物、息子のイサクでした。あなたにも大切なものがありますか。その宝物を、そして自分自身を神さまにおささげすることができますか? 六月二九日(日)  創世記二一1〜7  神さまはお約束の通りにアブラハムとサラに赤ちゃんを与えてくださいました。アブラハムはその子に「イサク」という名前をつけました。「笑い」という意味です。二人はその子を見る度に、自分たちは神さまを信じられなくて「そんなことが・・・」と笑ったことを思い起こし、神さまが約束通りにイサクを与え、神さまに与えられた本当の喜びを感じて笑ったのでした。 六月三十日(月)  創世記二一8〜21  ハガルとイシマエルはアブラハムの家にいられなくなります。荒野をさまよい、水がなくなり、疲れ果てて、死んでしまうとあきらめかけたとき、神さまは水の井戸を示し、ハガルとイシマエルを支えてくださったのでした。 七月一日(火)  創世記二一22〜34  ゲラルの王さまのアビメレクは、アブラハムと誓いを結びます。アブラハムが何をしても神さまがアブラハムを祝福しておられるのを見たからです。アブラハムは心から神さまに感謝しました。神さまは私たちをも祝福して下さいます。 七月二日(水)  創世記二二1〜8  神さまはアブラハムにその愛するひとり子イサクをささげるようにとおっしゃいます。羊のように殺して火で焼いてささげるのです。神さまがなぜこんなことをおっしゃるのかアブラハムにも全部はわからなかったでしょう。でもアブラハムは神さまに従ったのでした。 七月三日(木)  創世記二二9〜14  本当にイサクをささげようとしたアブラハムを神はとどめられました。もう十分でした。アブラハムが何よりも神さまを大切に思っていることがよく分かったからです。あなたにとって一番大事なのは何でしょうか。 七月四日(金)  創世記二二15〜19  神さまはアブラハムにまた祝福の約束を与えてくださいます。でも「ひとり子をも惜しまなかった」のはアブラハムだけではありませんでした。神さまもそのひとり子イエスを惜しまずに私たちのために与えてくださったのです。 七月五日(土)  ヤコブ二14〜26  アブラハムは信仰の人でした。アブラハムは何かをしたから、そのすばらしい行いのゆえに義とされたのではありません。信仰のゆえです。でも、アブラハムの信仰は生きて働いていました。イサクをささげるということでも神さまを信じて従ったのです。