聖書だ!ワクワク  新しい年になって最初の日曜日でしたね。あなたはこの新しい年のために何か、新しい決心をしましたか。去年はこうだったから、今年はここをこんな風にがんばろうと決心できた人はすてきだと思います。まだこれからの人はぜひ、何か決心をして見てください。そして、神さまにお祈りしましょう。自分の決心や自分のがんばりだけだと、すぐに「やっぱり、やめた」ということになってしまうからです。神さまに力をいただこうね。 1月4日(日)  マルコ十32〜34  イエスさまはエルサレムに向かって行かれました。弟子たちはイエスさまがいよいよ王様になるのだと思ったかもしれません。けれどもイエスさまは十字架にかかるために、私たちの罪を負って死ぬためにエルサレムに向かっておられたのです。でも弟子たちにはなかなかそれが分かりませんでした。 1月5日(月)  マルコ十35〜45  ヤコブとヨハネは偉くなりたいと思っていました。本当は他のお弟子さんもみんなそうでした。でもイエスさまは、だったらいばるのではなく、みんなに仕える人、みんなの人のしもべになりなさいとおっしゃいました。 1月6日(火)  1ペテロ五1〜4  長老というのは教会のリーダーでした。ペテロは長老たちも、また若者たちもみんな神さまのまえにへりくだり、謙遜になってお互いに仕え合うことを願っていました。それがイエスさまの生き方でもあったからです。 1月7日(水)  1ペテロ五5〜7  自分で自分のことをえらいんだといばるのはとても愚かなことです。神さまの前に自分を低くして仕えていくことです。神さまがあなたのことを心配し、あなたによくしてくださるからです。 1月8日(木)  ヨハネ十三1〜11  十字架の前の日、イエスさまは弟子たちの汚い足をみんな洗ってくださいました。それはしもべの仕事でした。けれどもイエスさまは自分を低くして、みんなの足を、そしてもっと汚いみんなの心を洗ってくださったのです。 1月9日(金)  ヨハネ十三12〜15  イエスさまは弟子たちにも、イエスさまがしたように互いに足を洗い合うようにとおっしゃいました。弟子たちが愛し合い、仕え合うことをイエスさまは願っておられたのです。 1月10日(土)  ピリピ二1〜11  イエスさまは神の子でした。けれども、私たちを救うために人になってこの世に来てくださいました。それだけではありません。汚い、痛い十字架について、みんなからバカにされてもじっとそれおお受けになりました。私たちの罪のゆるしが成就するためでした。 聖書だ!ワクワク 先週は新年の決心をしようという話をしました。決心をしたら、みんなに発表してください。自分の心の中だけで決心していると、もしその決心が守れなくても、まあいいやということになってしまいます。みんなに言うと、失敗したときにもばれてしまいます。でも勇気を出して、みんなを信じて自分の今年決めたことをみんなに言ってみよう。そして誰かの決心を聞かせてもらったら、その人のためにお祈りしよう。知ってほしい。みんなも教会の先生たちもきっとみんなのためにお祈りしていてくれるから。 1月11日(日)  マルコ十46〜52  バルテマイはどうしてもイエスさまに助けていただきたかったのです。イエスさまにはきっとできると信じていたのです。今、助けていただかないといけないと思っていたのです。そしてイエスさまはその信仰に答えてくださいました。 1月12日(月)  ヤコブ一5〜8  神さまに求める人は、「神さまでもできるかなあ、できないかもなあ」と疑ってはいけません。神さまにはどんなことでもおできになるからです。力のある神さまを信じて、求めましょう。 1月13日(火)  ヤコブ四1〜3  私たちが祈ったとおりにならないことがあっても、それは神さまが弱いからではありません。私たちはすぐにお祈りを止めてしまったり、悪い心で求めるからです。神さまは私たちの心を見ておられます。私たちがなぜ、それを求めているかをごらんになるのです。 1月14日(水)  ルカ十一1〜4  イエスはお祈りの達人でした。お弟子さんたちはそのイエスさまからお祈りを教えていただきました。有名な「主の祈り」です。イエスさまは私たちが何を、どういう風に求めたらいいのか教えてくださったのです。 1月15日(木)  ルカ十一5〜8  イエスさまはひとつのたとえ話をしてくださいました。しきりに願う友人にパンを出してくれた人の話です。「どちらでもいいけど」という祈りではなく、真剣に求め続ける人に神さまは答えてくださいます。きらめてはいけません。 1月16日(金)  ルカ十一9〜13  神さまは私たちの天のお父さんです。だから、私たちが求め続けるときに、必ず良いものをくださいます。そして神さまがくださる最高のプレゼントは、イエスさまご自身であり、聖霊様なのです。 1月17日(土)  ヨハネ十四13〜14  イエスさまは自分が天のお父様の所に帰っても弟子たちは大丈夫であることを知っておられました。なぜなら弟子たちは祈ることを知っていたからです。あなたも大丈夫です。あなたも祈ることを知っています。そして神さまはあなたの祈りに答えてくださるのです。 聖書だ!ワクワク  ひょっとしたら、みんなの中には自分が大きくなったら、神さまのお話をする牧師先生や教会学校の先生になりたいって思っているお友だちもいるかもしれないね。もしそうだったら、ぜひ、教会の先生にお話ししてほしい。そして大きくなってからではない、今のうちからイエスさまのお手伝いをしよう。そして、将来、神さまのお話をすることができるように、今から聖書を読もう、お祈りをしよう、お話を聞こう。今、できることから準備を始めよう。みんなのためにもお祈りしているよ。 1月18日(日)  マルコ十一1〜11  イエスさまはろばの子を使ってくださいました。イエスさまは私たちをも用いてくださいます。みんなはまだ子どもかもしれません。でも神さまはそんな子どものあなたも神さまのためにお手伝いができるようにしてくださいます。 1月19日(月)  イザヤ四三1〜7  神さまは私たちを造ってくださいました。そして私たちをあがない、私たちを「わたしのもの」と言ってくださいます。そして、神さまは私たちが、神さまのすばらしさを示すことができるようにと願っておられます。 1月20日(火)  イザヤ四三8〜13  「証人」とは、本当のことをみんなの前ではっきり言う、指し示す人のことです。私たちは証人なのです。神さまはこの方お一人で、このお方は私たちを救ってくださる方だということを伝えるのです。 1月21日(水)  イザヤ四三14〜21  イスラエルはエジプトで奴隷であったところから救い出されるという経験をしていました。なのにイスラエルは神さまに背きます。そしてイスラエルは国を失うのです。けれども、神さまはイスラエルのためにもっとすばらしい、新しいことをしようとしておられました。 1月22日(木)  イザヤ四三22〜28  イスラエルは罪を犯して神を悲しませます。けれども、神はそんなイスラエルになお、救いの道を備えていてくださいました。それは罪がゆるされるという道でした。それはお金持ちになるとか、有名になるとか、好きなことをするとかより、ずっと大切なことでした。 1月23日(金)  ローマ十二1〜2  私たちは神さまにいろいろなささげものをします。けれども、どんなささげものよりもすばらしいのは、私たち自身を神さまにおささげすることです。神さまが喜ばれることを何でも喜んでさせていただきましょう。 1月24日(土)  マルコ一16〜20  「わたしについてきなさい」と言われたとき、ペテロもアンデレも、ヨハネもヤコブも、いろいろなものをそこに置いたままで、喜んでイエスさまについて行きました。あなたもついて行ってください。 聖書だ!ワクワク  神さまはあなたに何を願っておられるでしょうか。あなたがどんなお仕事をしたとしても、どこにいたとしても、あなたが神さまを喜び、神さまのために生きることです。そのためにとても大切なことはあなたが神さまを信じることです。あなたは神さまを信じるとはどういうことでしょうか。それは、あなたが自分の罪を告白し、神さまが、あなたを罪から救うために送ってくださったイエス・キリストをあなたの救い主として受けいれることです。 1月25日(日)  マルコ十一12〜19  イエスさまは宮(神殿)を大切にされました。そこは神さまを礼拝し、神さまに祈るところだからです。宮の庭は異邦人の人たちが神さまを礼拝する場所でした。だからそこがにぎやかな商売の場所になっていたことをイエスさまは怒られたのです。 1月26日(月)  イザヤ五六1〜8  イザヤはイスラエルの人たちだけでなく、外国の人たちも神さまを信じて礼拝をささげ、祈りをささげるようになることを知っていました。今、世界中の人たちが聖書の神さまを信じてお祈りをしています。あなたもそうですね。 1月27日(火)  1列王八1〜21  最初にエルサレムに神殿を造ったのはダビデの息子のソロモン王様の時でした。神殿に主の栄光が満ちて、みんなそこに神さまがいてくださることが分かりました。神さまはダビデに言われた言葉を行われたのです。 1月28日(水)  1列王八22〜30  ソロモンはみんなの前に立って神さまにお祈りをしました。どんな大きな神殿も神さまには小さすぎます。ソロモンは、神さまを礼拝し、神さまに祈る場所として、その場所を神さまにおささげしたのでした。 1月29日(木)  1列王八31〜40  お祈りするときには感謝や賛美だけでなく、もし、神さまの前にごめんなさい、とおわびしなければならないことがあったら、それをそのままにしておかないで、神さまにお祈りしてゆるしを求めることです。 1月30日(金)  1列王八41〜45  神殿はイスラエルの人たちだけのものではありません。神さまもイスラエルだけのための神さまではないからです。ソロモンはそのことを知っていました。どこの国の人のお祈りでも神さまは聞いてくださいます。神さまは世界にこの方お一人だからです。 1月31日(土)  1列王八46〜53  もし私たちが罪を犯し、そのためにいろいろ大変なことが起こっても、そして、どんなに神さまから遠くにいたとしても、もし悔い改めて祈るなら、神さまはそのお祈りを聞いてくださいます。 聖書だ!ワクワク  神さまが願っておられることは、あなたがイエスさまを信じることです。でもそれは心の中で信じているだけで終わってはいけません。イエスさまを心で信じた人は、それを表します。それが洗礼です。みんなも教会で見たことがありますか? 皆さんがイエスさまを信じたら、ぜひ教会の先生に相談をして、洗礼を受けて下さい。きっと一緒に準備の学びの時をもってくださることでしょう。待たなければならないこともあるでしょう。でも洗礼を受けようという気持ちはなくさないでくださいね。 2月1日(日)  マルコ十一20〜26  神さまにはどんなことでもおできになります。だから、私たちは安心して、神さまにお祈りするのです。なぜならお祈りしたことは、必ずなるからです。だから、うらみや憎しみのような悪い心ではなく、よい心でお祈りしようね。 2月2日(月)  マルコ十一27〜33  バプテスマのヨハネは天からだったか人からだったか、と聞かれたときに、祭司長・律法学者たちは答えられませんでした。みんなの目が怖かったからです。この人たちは神さまよりも自分のことばかり考えていたのです。 2月3日(火)  マルコ十二1〜12  神さまはイスラエルのために何度も何度も預言者を送ってくださいました。でもイスラエルの人たちはその言うことを聞きませんでした。そして最後に神さまが送られたひとり子イエスも殺そうとしていたのです。 2月4日(水)  ヨハネ十五16〜17  神さまは私たちを選んでくださいました。それは、私たちが実を結ぶためです。その実が残るためです。そしてイエスさまのお名前でお祈りしたら、父なる神さまは与えて下さるとイエスさまはおっしゃいました。 2月5日(木)  ヨハネ十六23〜24  求めたら与えられます。私たちが求める相手は神さまだからです。イエスさまのお名前によって祈ると、イエスさまのお名前によってくださるのです。だったら、何を求めようか。神さまに喜ばれるような求めがしたいね。 2月6日(金)  詩篇一三六1〜9  神さまは世界を造られたお方です。だから私たちは神さまを賛美します。神さまってすごいよね。空も海も、山も、太陽も月も星も、全部、神さまがお造りになった。神さまには力がある。 2月7日(土)  詩篇一三六10〜26  神さまは、イエラエルの人たちがエジプトで奴隷だったときに、そこから救い出してくれた。神さまはこんな小さな私たちのことも心にとめていてくださって、罪の中から救い出してくださった。神さまって本当にすごい。神さまには力があるんだね。 聖書だ!ワクワク  「神のものは神に返しなさい」とイエスさまはおっしゃいました。神のものとは何でしょう。神さまは私たちが何かさしあげないと、お困りになるのでしょうか。たとえば私たちが献金しないと、ピンチになるのでしょうか。お手伝いをしてあげないと、できないことがたくさんあるのでしょうか。いいえ、神さまは何かしてあげないと困るようなお方ではありません。では、私たちが神さまに何かをささげるというのはどういうことなのでしょうか。神さまはささげる私たちの心を見ておられるのです。 2月8日(日)  マルコ十二13〜17  イエスさまはカイザルに税金をおさめなさい、でも同時に「神のものは神に」とおっしゃいます。神さまにささげるべきものをよそに使ってはいけません。神さまを一番にすることを忘れてはいけないのです。 2月9日(月)  マルコ十二18〜27  神さまはモーセに「わたしはアブラハムの神だった」とはおっしゃいませんでした。もうとっくに死んだアブラハムも、イサクも、ヤコブも、神さまのみもとで今も生きている。人間は死んで終わりではないのです。 2月10日(火)  マルコ十二28〜34  聖書の中にはいろいろ戒めがあるけれど、第一のものはどれでしょう。あれをするとかしないとか、ということ以上に、神さまを愛し、あなたの隣りにいる人を愛することなのです。 2月11日(水)  マルコ十二35〜40  律法学者たちは聖書のことをよく知っていました。みんなの前でりっぱなお祈りもできました。でも、いつでも気にしているのは他の人にどう見えるかということばかりでした。そして人の見ていないところでは悪いことをしていました。でも神さまはご存じでした。 2月12日(木)  1コリント六19〜20  このところでは、あなたのからだは神さまのものと言われています。だから、私たちは自分の体を大切にします。そして自分の体を神さまにささげて、神さまのお仕事をするのです。 2月13日(金)  詩篇五十1〜15  あれをささげる、これをささげると言っても、世界のものは全部神さまのものです。私たちの持っているものも神さまが私たちにくださったものばかりです。大事なのは、神さまに心からの感謝をささげることです。神さまとの約束を守り、神さまに祈り求めることです。 2月14日(土)  マラキ三6〜12  私たちがいただくものの十分の一は神さまのものです。おこづかいをもらったら、その十分の一を神さまにささげましょう。神さまは十分の一を献げる人を豊かに祝福してくださいます。 聖書だ!ワクワク  神さまは私たちの心を見ておられます。そして、心の中に感謝があふれていたら、それは必ず生き方になって表われていきます。献金するときにも喜んでするでしょう。喜びにあふれて、神さまにも、お父さんやお母さんにも、また周りの人たちにも感謝するでしょう。そして、何かお願いされたときにも、文句を言ったりふくれたりしないで、進んでできるはずです。そして、神さまはそんなあなたの心を喜んでくださるのです。 2月15日(日)  マルコ十二41〜44  やもめとはご主人がさきに亡くなった奥さんのことです。昔はそういう女の人が生きていくのはとても大変でした。この人がささげたのは、みんなが笑うくらい小さな献金だったかもしれません。でも、この人が自分にできるせいいっぱいをささげたことを神さまは知っておられました。 2月16日(月)  2コリント九6〜9  神さまは無理矢理ではなく、いやいやながらでもなく、もったないないなあという心でもなく、心から喜んで献げる人を愛してくださいます。そして、神さまもまた、私たちに恵みを豊かに与え、私たちを満ちたらせてくださるのです。 2月17日(火)  出エジ三五4〜9  エジプトを出たとき、神さまはモーセに、神さまにささげものをしたり、お祈りをするために幕屋を作るようにとおっしゃいました。モーセはみんなに、幕屋の材料をささげてほしいと呼びかけました。条件がありました。「心から喜んで」ということでした。 2月18日(水)  出エジ三五10〜19  材料だけではなく、幕屋を作る奉仕をする人たちも必要でした。自分にもこれならできるという人は集まってきたのです。みんなが神さまのために自分にできるささげものをしたのです。 2月19日(木)  出エジ三五20〜29  モーセが呼びかけたとき、みんな自分のテントに帰って行って、自分の家にある宝物を神さまのためにささげました。幕屋を作る奉仕をする人たちも集まりました。神さまがみんなの心にそういう気持ちを与えてくださり、みんなも喜んで神さまにささげたのです。 2月20日(金)  出エジ三五30〜35  神さまはベザレルやアホリアブに特別な才能をくださいました。みんなにも得意なことってあるかもしれませんね。あなたも、その自分の一番得意なことを神さまのために使いませんか。 2月21日(土)  出エジ三六1〜7  みんながあんまりたくさん持ってきて、多すぎるほど材料が集まりました。私も何かさせてほしい、何かささげたいと、みんなが幕屋造りに参加したのです。いやいやではありません。みんなうれしくてたまらなかったのです。 聖書だ!ワクワク  イエスさまはもう一度、雲に乗って帰ってくるとおっしゃいました。教会は二千年、イエスさまをお待ちしています。私たちはこのイエスさまを喜んでお迎えできるように、準備します。一番の準備はあなたがイエスさまを信じることです。そして、もう一つの準備はあなたが今しなければならないことを一生けんめいすることです。まだいいや、まだいいやと言わないでください。イエスさまは今日帰ってこられるかもしれないのですから。 2月22日(日)  マルコ十三1〜8  エルサレムにはすばらしい神殿(宮)が建っていました。弟子たちもすばらしい、すばらしいと言います。でもイエスさまは、その神殿がどんなに立派に見えても、くずれてしまうとおっしゃいました。目に見えるものは壊れるのです。 2月23日(月)  マルコ十三9〜13  終わりの時が来る前にはいろいろな前ぶれがあります。イエスさまを信じると迫害される時代があるでしょう。でも、イエスさまの福音は世界中のすべての人に伝えられていくのです。 2月24日(火)  マルコ十三14〜23  偽預言者や偽キリストが現れて、みんなをだまそうとします。そして、イエスさまの十字架だけではだめだと言ったり、自分がイエスさまなんだと言って、人に間違ったことを信じさせようとします。だからだまされないように気をつけなければなりません。 2月25日(水)  マルコ十三24〜27  いつまでも変わらないように見えた天にも変化が起きます。人の子とはイエスさまのことです。イエスさまは栄光の内に、雲に乗って来られます。そしてイエスさまを信じている人たちは世界中から集められるのです。 2月26日(木)  マルコ十三28〜37  今、私たちが見ている世界にはやがて終わりが来ます。けれども、私たちはそれを恐れたり、不安におもったりする必要はありません。何がどれだけ変わったとしても、変わることのない神さまの御言に私たちは立っているからです。 2月27日(金)  1テサロニケ四13〜18  イエスさまがもう一度来られるときは私たちにとっては大きな喜びの時です。イエスさまを信じて死んだ人々はよみがえり、私たちも引き上げられて、共に主にお会いするのです。 2月28日(土)  1テサロニケ五1〜10  イエスさまがいついらっしゃるかは誰も知りません。それを知る必要もありません。ただ確かなことはその日が近づいていることと、思いがけない日にイエスさまがこられるということです。だから私たちは今日の一日を大切に過ごすのです。 聖書だ!ワクワク  先週の水曜日から教会ではレント(受難節)  といって、イエスさまの十字架を思う時が始まりました。一日は、この受難節の第一主日になります。イエスさまは神の子なのに人になってこの世に下り、何も罪を犯しておられないのに、私たちの罪を身代わりに負って十字架で死んでくださいました。そして、自分の罪を認めて、イエスさまを救い主として信じる人は救われるのです。私たちはイエスさまがしてくださったことを思いめぐらしながら、この時を過ごしたいと思います。 3月1日(日)  マルコ十四1〜11  ナルドの香油はとても高価で貴重なものでした。けれども、この女はその壺を壊して、全部イエスさまの頭に注ぎかけました。ある人たちは「むだなこと」と言いましたが、イエスさまはこの女のしたことを喜ばれました。 3月2日(月)  ルカ七36〜50  ここには別の女の人が泣きながら涙でイエスさまの足をぬらし、香油を塗ったことが書かれています。この女は「罪の女」として有名でした。でも、この人はその多くの罪がゆるされたのがうれしくてたまらなかったのです。 3月3日(火)  ルカ十38〜42  マリヤはイエスさまのお話に聞き入っていました。マルタはいらいらしましたけれど、でもイエスさまはマリヤがイエスさまのお話をじっと聞いているのがとてもうれしかったのです。とても大切なことと思われたのです。 3月4日(水)  ヨハネ十二1〜11  ヨハネは日曜日に出てきた女の人をはっきりマリヤと言っています。マリヤは今、それをしないと間に合わないことを知っていました。イエスさまもそれを喜ばれました。しかし、イエスさまはもっと大きな犠牲をはらわれたのです。 3月5日(木)  2コリント二14〜17  私たちはキリストのかおりです。人々は私たちと出会うときに、イエスさまがどういうお方かを思い起こすのです。また、神さまは私たちを喜んでくださるのです。 3月6日(金)  エペソ五1〜2  イエスさまは、十字架で、神さまの前にご自身をささげられました。それはどんな高価なささげもよりも、ずっとずっと高価な尊いささげものでした。そして、この尊いささげもののゆえに、私たちは神に愛される子と呼んでいただけるのです。 3月7日(土)  エゼキエル二十40〜41  神さまの前にささげるときには一番よいものをささげなければなりません。ある人たちはもったいないと言ったとしても、神さまにどれだけささげても、高価すぎることはありません。神さまはささげる私たちを受けいれてくださるのです。 聖書だ!ワクワク  教会ではイエスさまが定められた二つの礼典をとても大切なものとして守ってきました。一つは洗礼式であり、これはイエスさまを信じるときに受けるものです。これは一生の中で一度だけです。そしてもう一つは聖餐式です。洗礼を受けた人たちがパンとぶどう液をみんなでいただきます。今日の聖書の箇所は、イエスさまが最初の聖餐式をなさったときの記事です。ちょうどそれは、イスラエルの人たちがエジプトから解放されたことを記念する、過越の祭りの時でした。イエスさまは、その血潮で私たちを罪から解放してくださったのです。 3月8日(日)  マルコ十四12〜16  過越の祭りには小羊が殺されて、その血が家の入り口の柱とかもいに塗られました。その血はイスラエルの人たちを災いから救うしるしだったのです。 3月9日(月)  マルコ十四17〜21  イエスさまはそこで一緒に食事をしている中の一人が自分を裏切るとおっしゃいました。イスカリオテのユダもそこにいました。イエスさまはユダに悔い改めて欲しかったのです。そして何回もチャンスをくださっているのです。 3月10日(火)  マルコ十四22〜25  イエスはパンを裂いて与え、杯をも与えられました。それは十字架の上で裂かれるイエスさまの体、流される血を表していました。イエスさまの十字架のゆえにだけ、私たちは生きるのです。 3月11日(水)  1コリント十一23〜29  この聖餐を受けるたびに、私たちはイエスさまの十字架を思い起こし、今もそのイエスさまがいてくださることを思い、主がもう一度来られる時を待ち望むのです。だから、私たちはこの聖餐式を大切に守るのです。 3月12日(木)  エレミヤ三一1〜14  エレミヤは南ユダ王国がバビロンに滅ぼされる時代に、ユダで預言しました。人々は神に背き、国は滅びようとしています。けれども、エレミヤは涙を流しながら、「限りない愛をもって」愛しておられる神を語るのです。 3月13日(金)  エレミヤ三一15〜26  イスラエルは神に背いて、神の裁きを受けようとしています。けれども、神は、イスラエルを「忘れることができない」と愛をもって、人々がその悪い歩みを悔い改めて、帰ってくることを待っておられました。 3月14日(土)  エレミヤ三一27〜34  イエスさまは最初の聖餐式の時、「新しい契約」とおっしゃいました。それはエレミヤが五百年以上前に預言していたことでした。イエスさまを信じることによって罪がゆるされるという新しい道が開かれたのです。 聖書だ!ワクワク  イエスさまはこの地上の歩みをしておられるとき、よくお祈りになりました。特に、ここぞという大事な時に、特別に祈られました。このゲッセマネの時もそうです。イエスさまは、祈られないで大切なことをしたり、決めたりはなさいませんでした。お祈りはイエスさまの生活の一部でした。そして、イエスさまの生活全部がそのお祈りに支えられていました。もし私たちがお祈りしなくても、平気でやっていけるとしたら、それはとてもおかしいことです。とてもあぶなっかしいことです。 3月15日(日)  マルコ十四26〜31  イエスさまはお弟子さんたちが自分を捨てて逃げていくことを知っておられました。でもペテロも他の弟子たちも、自分には絶対そういうことはない、という自信がありました。弟子たちは自分の弱さをしらなければなりませんでした。 3月16日(月)  マルコ十四32〜42  イエスさまは苦しい苦しいお祈りをされました。イエスさまは人々の罪の恐ろしさ、罪を裁かれ、神に捨てられることの恐ろしさを知っておられたからです。でもイエスさまは、「みこころのままに」と祈られたのでした。 3月17日(火)  ヘブル四7〜10  イエスさまの祈りの中でゲッセマネの祈りは一番苦しいお祈りだったでしょう。そして、そのお祈りは聞き入れられました。十字架はなくなりませんでした。でも、神様のみこころがなり、私たちの救いの道が開かれたのです。 3月18日(水)  詩篇四十1〜11  この詩篇の記者はとても苦しいところにいました。でも神様が自分のことをどんなに深く思っていてくださっているか良く知っておられました。だから、神様のみこころを行うことを喜びとできたのです。 3月19日(木)  詩篇四十12〜17  大きな苦しみの中で詩篇の記者は祈っています。人々は彼を笑ってばかにしています。救ってくださいと叫びながら、「みこころならば」と詩篇の記者は言います。本当に神様に信頼していたからです。 3月20日(金)  詩篇一三八1〜8  神さまのみこころとは、神さまの都合でということではありません。神さまはわたしたちにとって何が一番よいかをよく知っておられ、そのことを、私のためにしてくださるからです。 3月21日(土)  マタイ六9〜15  イエスさまは弟子たちに教えられたその「主の祈り」の中でも、みこころが地でも行われますように、と祈られました。特に自分の思いと神さまの思いとが違う時には、自分の気持ちを通したくなるものです。でも神さまのみこころがなることが自分にとっても一番しあわせな道なのです。 聖書だ!ワクワク  絶対にイエスさまについていきますと言えた弟子たちは、本当に勇気があったと思います。そして、みんな心からイエスさまとどこまでも一緒にいたいと思っていたのです。けれども、弟子たちの決心や自信はあっという間にふっとんでしまいます。みんなイエスさまを見捨てて逃げて行き、ペテロも、イエスさまを三回も知らないと行ってしまいました。自分の力でイエスさまを信じ、ついて行ける人はいません。こんな弱い私たちだからこそ、イエスさまの救いが必要なのです。 3月22日(日)  マルコ十四43〜54  ユダはイエスさまを裏切り、他の弟子たちもみんな逃げていきます。でもイエスさまは逃げませんでした。みんなをやっつけませんでした。聖書の言葉が成就するために、どこまでも神さまの御心の中を歩んでいかれたのです。 3月23日(月)  マルコ十四55〜65  イエスさまは本当にキリスト、神さまが送られた救い主でした。でもイエスさまがそうおっしゃった時に、みんなうそだと言いました。イエスさまのおっしゃることを信じなかったのです。信じてください。イエスさまは本当にあなたの救い主なのです。 3月24日(火)  マルコ十四66〜72  ペテロはイエスさまの後を、こっそりついていきました。でも、あなたはイエスの仲間だと言われた時に、「そうです」と言えませんでした。ペテロはイエスさまのお言葉を思い起こします。ペテロのいやしがそこに始まっていました。 3月25日(水)  ルカ二二31〜34  イエスさまはペテロに、「あなたのために祈った」とおっしゃいました。イエスさまは、あなたのためにも祈ってくださいます。イエスさまはあなたを見捨てておられないのです。 3月26日(木)  ルカ二二54〜62  イエスさまは振り向いて、ペテロを見つめられました。どんなお顔だったでしょうか。ペテロは自分の失敗・弱さ・罪深さを知らされて泣くのです。でも、そんなペテロにも神さまのまなざしは注がれていました。 3月27日(金)  1ペテロ一1〜12  ペテロはずっと後に、イエスさまを信じて、試練の中にいる人たちに手紙を書きました。神さまが自分たちに与えてくださっている望みは決してなくなることはない。ペテロはみんなを励ましました。 3月28日(土)  1ペテロ一13〜25  イエスさまはその尊い血によって私たちを罪の中からあがないだしてくださいました。私たちの信仰も救いも望みも、みんな自分たちのがんばりによってではなく、神さまとそのお言葉によっていることをペテロは自分の経験を通しても良く知っていたのです。 聖書だ!ワクワク  みなさん、春休みが終わって、新学期になると、新しい学校に行ったり、学年が上がってみんな上級生になるでしょう。教会学校でも、一つずつ学年が上がっていきます。みんなより小さいお友だちを助けてあげてくださいね。それから、教会には卒業式はありません。四月になっても、ますます元気に教会に来てくださいね。  教会ではイエスさまの十字架のお話になっていきます。みなさんの中でまだイエスさまの十字架を信じていない人がいたら、今年、ぜひイエスさまを信じてください。 3月29日(日)  マルコ十五1〜15  ユダヤ人たちはイエスさまをローマ人のピラトのところに送って、死刑にしてほしいと言いました。イエスさまをねたんでいたのです。そして何も悪いことはしていないイエスさまが十字架にかかることになりました。 3月30日(月)  マルコ十五16〜21  イエスさまは十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かいます。途中で、クレネ人シモンが十字架を背負わされます。シモンには何でそんなことが起こるのか分からなかったでしょう。でも後で、きっとイエスさまの十字架を負わせていただいたことを感謝したにちがいありません。 3月31日(火)  マタイ十34〜39  私たちは自分の罪のための十字架を負うのではありません。それはイエスさまが負ってくださいました。でも、私たちが負わなければならない十字架があります。イエスさまの弟子はそれを負って従うのです。 4月1日(水)  マタイ十六21〜28  自分のために生きるのではなく、自分が得をして、助かることだけを考えるのではなく、自分を捨てて、自分の十字架を負って、イエスさまについて行きましょう。 4月2日(木)  コロサイ一15〜20  イエスさまは私たちを造ってくださいました。そして、神さまに背を向けて歩んでいた私たちをその十字架によって救い、神さまと和解(仲直り)させてくださったのです。 4月3日(金)  コロサイ一21〜23  イエスさまは神から離れ、神の敵として歩んでいた私たちを救うために、肉体をとってこの世に来て、その十字架の死を通して、私たちをきよいものにしてくださいました。喜びをもって神さまの前に立てるようにしてくださったのです。 4月4日(土)  コロサイ一24〜29  この手紙を書いているパウロはイエスさまを伝えたために牢屋にいます。でもパウロはその苦しみを喜んで負いました。イエスさまの苦しみを知っていたからです。そして、イエスさまが自分の内に住んで、力強く働いていてくださるのを知っていたからです。