イエスさまはこの地上の歩みをしておられるとき、よくお祈りになりました。特に、ここぞという大事な時に、特別に祈られました。このゲッセマネの時もそうです。イエスさまは、祈られないで大切なことをしたり、決めたりはなさいませんでした。お祈りはイエスさまの生活の一部でした。そして、イエスさまの生活全部がそのお祈りに支えられていました。もし私たちがお祈りしなくても、平気でやっていけるとしたら、それはとてもおかしいことです。とてもあぶなっかしいことです。
- □ 3月15日(日) マルコ十四26〜31
- イエスさまはお弟子さんたちが自分を捨てて逃げていくことを知っておられました。でもペテロも他の弟子たちも、自分には絶対そういうことはない、という自信がありました。弟子たちは自分の弱さをしらなければなりませんでした。
- □ 3月16日(月) マルコ十四32〜42
- イエスさまは苦しい苦しいお祈りをされました。イエスさまは人々の罪の恐ろしさ、罪を裁かれ、神に捨てられることの恐ろしさを知っておられたからです。でもイエスさまは、「みこころのままに」と祈られたのでした。
- □ 3月17日(火) ヘブル四7〜10
- イエスさまの祈りの中でゲッセマネの祈りは一番苦しいお祈りだったでしょう。そして、そのお祈りは聞き入れられました。十字架はなくなりませんでした。でも、神様のみこころがなり、私たちの救いの道が開かれたのです。
- □ 3月18日(水) 詩篇四十1〜11
- この詩篇の記者はとても苦しいところにいました。でも神様が自分のことをどんなに深く思っていてくださっているか良く知っておられました。だから、神様のみこころを行うことを喜びとできたのです。
- □ 3月19日(木) 詩篇四十12〜17
- 大きな苦しみの中で詩篇の記者は祈っています。人々は彼を笑ってばかにしています。救ってくださいと叫びながら、「みこころならば」と詩篇の記者は言います。本当に神様に信頼していたからです。
- □ 3月20日(金) 詩篇一三八1〜8
- 神さまのみこころとは、神さまの都合でということではありません。神さまはわたしたちにとって何が一番よいかをよく知っておられ、そのことを、私のためにしてくださるからです。
- □ 3月21日(土) マタイ六9〜15
- イエスさまは弟子たちに教えられたその「主の祈り」の中でも、みこころが地でも行われますように、と祈られました。特に自分の思いと神さまの思いとが違う時には、自分の気持ちを通したくなるものです。でも神さまのみこころがなることが自分にとっても一番しあわせな道なのです。