新しい年度になりました。きっとみんな今週から学校ではないでしょうか。新しい学校になったり、新しいクラスになるお友達もいるでしょうね。教会もがんばってくださいね。  さて教会では今週は受難週といってとても大切な週を過ごします。イエスさまが十字架にかかって死んでくださったことを記念するときなのです。イエスさまが私たちのためにどんなに大きなことをしてくださったかよく味わっていきましょう。 4月5日(日) マルコ十五22-28  イエスさまの両側には二人の強盗が十字架につけられました。とても悪いことをしたから十字架につけられたのです。もちろんイエスさまは何も悪いことはしていませんでした。でもイエスさまは私たちの罪を負って罪人として死んでくださったのです。 4月6日(月) マルコ十五29-32  みんなはイエスさまのことをバカにして、みんなを助けてあげたのだから、自分を救ったらいい、降りてきたらいい、と言いました。イエスさまは神さまですからおりられました。でもおりませんでした。自分を救いませんでした。私たちの救いのためです。 4月7日(火) ルカ二三32-38  イエスさまは十字架の上で自分を十字架につけた人たち、十字架の下でイエスさまをバカにしている人たちのためにお祈りして下さいました。イエスさまの祈りはあなたのためでもあります。 4月8日(水) ルカ二三39-43  二人の強盗のうちの一人は、ずっとイエスさまをバカにし続けました。でももう一人は、十字架の上でイエスさまを信じ、イエスさまにおすがりしました。イエスさまはこの強盗も天国に連れて行ってくださいました。 4月9日(木) マルコ十五33-36  イエスさまは十字架の上で、私たちの罪を負い、罪深い者・神に呪われた者として、神に捨てられ、死んでくださいました。イエスさまは神から捨てられるということがどんなに恐ろしいことかを味わってくださったのです。 4月10日(金) マルコ十五37-41  神殿の幕の奥は、特別な人が一年に一度しか入れない場所でした。イエスさまが十字架に死んでくださったおかげで、誰でも神さまに近づいて救っていただけるようになったのです。神さまがイエスさまの十字架を受け入れて、幕をさいてくださったのです。 4月11日(土) マルコ十五42-47  みんなからも尊敬されていたアリマタヤのヨセフは勇気を出してイエスさまの体を引き取りました。そしてイエスさまを丁寧にほうむり、お墓に入れました。イエスさまは本当に死んでくださいました。  今日はイースターです。十字架にかかって死んでくださったイエスさまが、死を打ち破ってよみがえってくださったことを記念する日です。世界中の人たちがイエスさまのよみがえりをお祝いします。神さまの救いが成就しました。知ってください。私たちもやがて死ぬでしょう。でも、死んで終わりではありません。イエスさまを信じていたら、私たちも、イエスさまと同じように死んでもまたよみがえるのです。 4月12日(日) マルコ十六1-8  日曜日の朝、女たちがイエスさまのお墓に行ってみると、お墓の入口に置かれていたとても大きな石は転がされて、お墓の中はからっぽでした。どんなに探してもお墓にはイエスさまはおられません。天使は女たちに、弟子たちとペテロに、このことを知らせなさいと言いました。 4月13日(月) マルコ十六9-13  イエスさまはイースターの朝に、マグダラのマリヤにご自身をあらわされました。その日の午後には、いなかの方に歩いていっていた二人の弟子たちにイエスさまはご自身をあらわされました。でもイエスさまはよみがえられたという知らせはなかなか信じてもらえませんでした。 4月14日(火) ルカ二四1-12  イエスさまは前から死んでも三日目によみがえると約束しておられました。でも、そのイエスさまの言葉をすっかり忘れていたのです。信じていなかったのです。 4月15日(水) ルカ二四13-35  エマオに行く途中でクレオパともう一人の弟子はイエスさまにお会いしました。でも最初はそれがイエスさまだとわかりませんでした。でもイエスさまが聖書の話をしてくださるのを聞いていると心が燃えてきたのです。 4月16日(木) ルカ二四36-43  最初の弟子たちが集まっているところにイエスさまが来られた時、イエスさまがそこにいるのに、弟子たちは信じられませんでした。幽霊を見ているのだと思いました。なぜ信じないの、幽霊じゃないでしょ、イエスさまは弟子たちに自分を示されました。 4月17日(金) マルコ十六14-18  よみがえられたイエスさまは弟子たちに「全世界に出て行ってすべての造られたものに福音を宣べ伝えよ」とおっしゃいました。だから私たちもイエスさまのことをみんなにお知らせするのです。 4月18日(土) マルコ十六19-20  弟子たちはイエスさまに言われたとおりに福音を宣べ伝えていきました。弟子たちが行くところ、目には見えなくても主が一緒に行って働き、イエスさまの御言葉が本当であることを示してくださいました。  私たちはイエスさまのお弟子さんたちはいいなあと思います。だってイエスさまのお話を直接聞いたり、イエスさまのなさることを見ることができたからです。でも、それでは、イエスさまのお弟子さんたちが見たから信じられたかというとそうではありませんでした。見てもやっぱり信じられなかったのです。聞いてもやっぱり信じられなかったのです。目で見ていないけれど信じているって本当はすばらしいことなのです。 4月19日(日) 使徒一1-5  イエスさまはよみがえられて四十日間、弟子たちにご自身を示され、また神の国のことをお話になりました。そして、聖霊をくださるという「父の約束」を待つようにとおっしゃったのです。聖霊といっしょでないと、力がないのです。神さまの約束は絶対に確かで、絶対に裏切られることはありません。 4月20日(月) 使徒一6-8  イエスさまがよみがえられてこの時にも、弟子たちはまだ、イエスさまがこの世の王様になってくれるのではないかと期待していました。でももっと大切なのは、聖霊がくだるとき弟子たちは力を与えられてイエスの証人にされるということです。 4月21日(火) ルカ二四44-48  イエスさまの十字架も復活もみんな聖書の言葉のとおりでした。でもまだ弟子たちは出ていけませんでした。聖霊がくだり、上から力を与えられないと、イエスさまの証人にはなれないのです。 4月22日(水) ヨハネ十四16-17  イエスさまは天に帰られます。でも父なる神さまは別に「助け主」を送ってくださいます。聖霊はお手伝いさん・お助けマンではありません。いつもあなたといっしょにいてあなたをささえてくださるお方なのです。 4月23日(木) 使徒一9-11  イエスさまはオリブ山に登り、弟子たちの見ているところで、天に帰って行かれました。弟子たちはまたまたびっくりです。でも天使は、また同じようにイエスさまが帰ってこられることを約束してくれました。 4月24日(金) 使徒一12-14  弟子たちはエルサレムの一つの場所に集まって毎日お祈りしました。イエスさまが約束してくださった聖霊が与えられるように百二十人の人がお祈りをしました。母マリヤやイエスの兄弟たちも一緒でした。 4月25日(土) 使徒一15-26 百二十人の人たちは相談し、お祈りして、イスカリオテのユダの代わりを選びました。マッテヤが十二人に加わることになりました。祈って決めましたから、主が選んでくださったとみんなは信じたのでした。  教会がスタートしてから、もう二千年近くの時間がたっています。けれども教会はずっとイエスさまが約束の通り、この世に帰ってきてくださることを待ち望んできました。このイエスさまがもう一度来られることを「再臨」と言います。二千年前にはイエスさまは十字架にかかって死に、私たちのために救いの道を開くために来て下さいました。再臨の時には、イエスさまは、私たちを天国にいれてくださり、神様を拒み続け罪を犯し続ける人たちには永遠のさばきを行われます。 4月26日(日) 2ペテロ一1-11  ペテロは困難の中にある教会を励ますためにこの手紙を書いています。わたしたちにはすばらしい約束が与えられている。それは私たちが罪とその結果である滅びから救われ、変えられて、永遠の国に入れていただくという約束です。 4月27日(月) 2ペテロ一12-21  ペテロはもう自分の死ぬ時が近づいていることを知っていました。だからこそ自分が死んでからも、神さまのことを忘れないでほしかったから、この手紙を書いたのです。ペテロはイエスが栄光の姿で再臨されることを知っていました。 4月28日(火) 2ペテロ二1-10  ペテロはみんなが偽教師にだまされないようにと心から願っています。そういう人たちはイエスさまもイエスさまの救いも信じないで、やりたい放題のことをして、罪を重ね、人々を自分の方に引っ張り込もうとしていたのです。 4月29日(水) 2ペテロ二11-22 ペテロは一度、イエスさまを信じて罪をゆるしていただきながら、このイエスさまを知っているのに、大きな恵みをいただき、神さまに救っていただいたのに、また罪を犯し続ける人のことが我慢ができませんでした。 4月30日(木) 2ペテロ三1-7  イエスさまの再臨を待っていた教会の人々でしたが、イエスさまが天に帰られて三十年もすると、もう帰ってこないよ、だから好きなことをしてたほうがいいよ、と考えて悪いことをしている人たちがいたのです。 5月1日(金) 2ペテロ三8-13  ペテロは神さまは遅くなっているのではないといいます。永遠に生きておられる神さまにとっては千年でも一瞬でしょう。みんなが悔い改めて救われることを願って、長く待っていてくださっているのは神さまの方なのです。 5月2日(土) 2ペテロ三14-18  ペテロはいつイエスさまが帰ってこられても大丈夫なように、迷わされないで、いつも神を信じ、神の喜ばれる正しい生き方をするように勧めます。そして、ペテロはそのことを願って祈りとともにこの手紙を閉じます。  学校が始まって一ヶ月。みんなもう慣れたでしょうか。新しい学校、新しいクラス、新しい学年。新しいお友だちはたくさんできたでしょうか。新しいお友だちを作るには自分から他の人に声をかけることです。相手の人も、誰か声をかけてくれないかなあと待っているかもしれません。あなたが誰かから声をかけてもらって、友だちになってうれしいなら、あなたの方からぜひ、誰かに声をかけてその人のお友だちになってください。 5月3日(日) マタイ二五1-13  五人の人たちは油を準備していましたけれど、五人の人たちは油の準備がありませんでした。そして準備をしていなかった愚かな人たちは、すばらしい結婚パーティに出ることができなかったのです。私たちもいつイエスさまが来られてもよいように、よく考えて準備をしていることです。 5月4日(月) マタイ二四1-14  世の終わりの前にはいろいろな前兆があります。戦争が起こり、いろいろな自然災害が起こります。みんなの愛が冷えていきます。でも、そんな中でも、イエスさまの福音は全世界に宣べ伝えられていくのです。 5月5日(火) マタイ二四15-28 偽キリストが出てきます。不思議なことをして見せて、みんなをだまそうとするのです。でもだまされてはいけません。イエスさまが来られるときまでしっかり目をさましていましょう。 5月6日(水) マタイ二四29-31  人の子とはイエスさまのことです。イエスさまは雲に乗り、栄光の中でもう一度帰って来られます。そして世界中からイエスさまを信じている人たちは集められるのです。その時はイエスさまを信じている人たちにとってはイエスさまとお会いする喜びの日です。 5月7日(木) マタイ二四32-35  イエスさまの来られるときが近づいています。イエスさまのお言葉が変わってしまったり、なしになってしまうことは絶対にありません。目に見えるすべてのものが変わっても、イエスさまのお言葉は変わらないのです。だからこのお言葉に頼っていれば大丈夫です。 5月8日(金) マタイ二四36-44  いつイエスさまがまた来られるのかはだれも知りません。分かっているのは、誰も予想していない、思いがけない日にイエスさまは再臨されるということです。あなたは今日イエスさまが来られても準備ができていますか? 5月9日(土) マタイ二四45-51  大事なことはいつイエスさまが来られても良いように、毎日、その日のために与えられていることを一生懸命すること、いつでもイエスさまをお迎えできるように、よく考えて準備することです。  私が子どもだった頃、イエスさまの再臨の話を聞くのはあまり好きではありませんでした。イエスさまを信じている人は天国にいれてもらえるというのですが、「信じる」ということがどういうことか分からなかったからです。でも小学三年生の夏のキャンプの時に、イエスさまを信じるとは、「自分の罪をおわびして、十字架にかかってくださったイエスさまを救い主として受け入れること」と知りました。私はイエスさまを信じました。あなたはイエスさまを信じましたか。 5月10日(日) マタイ二五14-30  一タラントは二十年分の給料にあたるお金です。主人は僕たちを信頼して大きなお金を預けました。主人がほめたのは、僕たちがたくさん儲けたからではありません。預けくれた主人に感謝し、忠実に預けられたものを使ったからです。 5月11日(月) 1コリント四1-5  神さまはわたしたちにすばらしい奥義、福音をゆだねてくださいました。神さまはわたしたちに期待していてくださるのです。だから私たちは忠実に歩んでいかなければなりません。 5月12日(火) ルカ十六10  小さなことに忠実に生きるということはとても大切なことです。大きなことは一生懸命するけれど、小さなことは手を抜くということではなく、どんなに小さなことでも、心をこめて一生懸命しましょう。神さまは見ていてくださいます。 5月13日(水) 1テモテ一1-11  パウロは若い教会の先生であったテモテに手紙を書きます。パウロは神さまのすばらしい福音をゆだねられていました。だからパウロは一生懸命がんばっていました。そしてパウロはこの手紙でテモテをも励ましているのです。 5月14日(木) 1テモテ一12-17  パウロはイエスさまを信じる前は教会の迫害者でした。イエスさまを信じている人たちを捕まえて牢屋に投げ込んでいました。パウロはそんな自分を「罪人の頭」と言います。けれども神はそんなパウロを救い、福音を伝えるために用いて下さったのです。 5月15日(金) 1テモテ一18-20  教会には、以前はパウロと一緒にすばらしい働きをしていたのに、イエスさまを捨てて離れていく人もいました。パウロは悲しい思いで名前をあげています。パウロはテモテには最後まで戦い抜いてほしかったのです。 5月16日(土) 黙示二8-11  御使いはスミルナの教会に手紙を送らせます。スミルナの人々は大変な迫害を受けていました。苦難はほんのしばらくだけです。途中で投げ出すのでなく、最後まで忠実でありたいと思います。  私が子どもの頃、私はイエスさまの再臨が怖くてたまりませんでした。だから毎日お祈りしていました。「九千九百九十九億九千九百九十九万九千九百九十九年後に来てください」。今日、イエスさまが来てしまったら、私は天国にいけないと思ったからです。でもイエスさまを信じたとき、もう九がたくさん並ぶお祈りをする必要はなくなりました。いつイエスさまが来られても、天国に行けるようになったことを知っているからです。 5月17日(日) マタイ二五31-46  ここでは小さな人・弱い人・困っている人にどのようにするかが、天国に行く鍵とされています。もちろん、イエスさまを信じるということは口先だけのことではなくて、生き方になっていくのです。そして神さまは弱い立場の人のことをよく考えておられるのです。 5月18日(月) マタイ十八1-4  天国ではだれが一番偉いでしょうかとお弟子さんたちは聞きました。きっと俺だ、と思っていたでしょうか。でも天国で偉いのは子どものように、何もできなかったとしても神さまに信頼し、神さまにすがる人なのです。 5月19日(火) マタイ十八5-9  私たちは神さまが大切に思っておられる小さい人のひとりを同じように大事に思い、受け入れるべきです。間違っても小さな人の信仰をつまづかせることのないように、気をつけましょう。 5月20日(水) マタイ十八10-14  小さい子どものために仕えている御使いがいます。天のお父さまは、その一人をも愛して、その一人も迷って滅んでしまわないようにと願っておられるのです。その一人のためだったら、どんなことをしても探し出して救おうとされるのです。 5月21日(木) マタイ十八15-20  誰かが罪を犯していたら、それを見逃していいよいいよと言うのではなく、その人のために心を合わせてお祈りしてあげてください。そして、神さまから知恵をいただいて、愛をもって忠告してあげましょう。 5月22日(金) ヤコブ二1-13  教会で貧しい人たちや、小さい子どもたち、お年寄り、学校でいじめられているお友だちに冷たくしているとしたらどうでしょう。とても悲しいですね。神さまはこの世の弱い人たちを愛してくださっています。 5月23日(土) ヤコブ二14-17  イエスさまを信じているということは、ただ口で、「信じてる信じてる」ということではなくて、弱っている人や困っている人に親切にし、神さまが愛を示しておられるように、愛を示していくということです。  神さまは私たちのためにすばらしい天国を備えてくださっていますお。私たちは地獄には行きたくないから天国がいいというかもしれませんが、天国は本当にすばらしいところです。どれだけ期待していても、間に合わないほどです。私たちが思うよりもずっとずっとすばらしいところなのです。私たちが天国にいったら、あまりのすばらしさに声もでないでしょう。そして神さまにいっぱい感謝するのです。いっぱい賛美するのです。 5月24日(日) 黙示録二一1-4  今の世界は人間が罪を犯してめちゃくちゃにしてしまったので、悲しいことや痛いことや、つらいことだらけです。でも神さまが用意してくださる天国は、神さまがいつも一緒にいてくださって、何も悲しいことはありません。神さまが全部を新しくしてくださるからです。 5月25日(月) 黙示録二一5-8  神さまはイエスさまを信じる人にこの天国を与えてくださいます。私たちは神の子として、喜んでそこに住むのです。でもおくびょうな人、信じない人、神さまがお嫌いになることをし続ける人は、この神さまの御国には入れません。 5月26日(火) 黙示録二一9-21  新しい神さまの都は金やすばらしい宝石で飾られています。その都には何の欠けたものも足りないものもありません。神がいつもそこにいて、神の栄光に満ち、神が喜んでくださる都なのです。 5月27日(水) 黙示録二一22-27 神さまを信じ、いのちの書に名前がある人だけがその都に入ることができます。その都にはあかりはありません。この都におられる神さまが、決して曇ったり、暗くなったりすることのないあかりとして、その都を照らしていてくださるからです。 5月28日(木) 黙示録二二1-5  神さまのところからいのちの水の川が流れ出ています。その川の両側にはいのちの木がはえていて、いつでもその実を食べることができます。神さまのものとされた人々が神さまを礼拝します。そこには怖い夜はありません。 5月29日(金) 黙示録二二6-15  イエスさまのお弟子さんのヨハネは神さまから教えられ、幻を見せられて、この預言の言葉を書き残しました。これはおとぎ話ではありません。本当に起こることなのです。信じて待つべきことなのです。 5月30日(土) 黙示録二二16-21  聖書の言葉は足したり引いたりしてはいけません。イエスさまは「すぐに来る」とおっしゃいました。だから、私たちも「主イエスさま、来てください」とイエスさまが来られる時を楽しみにして待ち続けるのです。  今日は教会の誕生日です。これは昔からペンテコステ(五旬節)と言って、収穫の始まりを祝うお祭りの時でもありました。イエスさまがよみがえられて七週間、五十日目に、お祈りしている弟子たちに聖霊が来てくださって、教会がスタートしました。イエスさまが約束しておられたように、あの臆病な弟子たちが変えられて、イエスさまのことを大胆に証しする人にされました。お弟子さんたちの話を聞いてイエスさまを信じて、罪をゆるされ、神の子にされる人が起こされていったのです。 5月31日(日) 使徒二1-4 その日も弟子たちは集まっていました。きっとお祈りしていたのでしょう。そこに集まっていた人たちは聖霊に満たされて、今まで自分が話せなかったいろいろな外国の言葉で神さまのすばらしいことを話し始めたのです。 6月1日(月) 使徒二5-13  その日はお祭りの日で、いろいろな国々から人々が集まってきていました。弟子たちがいろいろな言葉でイエスさまのことを話し始めたとき、外国から来ていた人たちはびっくりしました。弟子たちが、自分の国の言葉で神さまのことを話していたからです。 6月2日(火) 使徒二14-21  ペテロにはこの時に、起こっていることが預言者ヨエルが旧約聖書で予言していたことだと分かりました。神さまの霊が注がれて、神さまの言葉を語るようにされたのです。 6月3日(水) 使徒二22-28  ペテロはイエスさまは神の子であったのに十字架にかかって死んでくださったこと、けれども、そのイエスさまは死を打ち破ってよみがえってくださったことを大胆に話しました。みんな旧約聖書に書いてあるとおりでした。 6月4日(木) 使徒二29-36  よみがえられたイエスさまは天に帰り、神の右に座って、約束の通り、聖霊を注いでくださいました。十字架につけられて死んでくださったイエスこそが旧約聖書に約束されている救い主なのです。 6月5日(金) 使徒二37-42  聞いていた人たちも自分たちがとんでもないことをしてしまったことに気づきました。ペテロは、悔い改めて、イエスさまを信じて、バプテスマを受けるようにと勧めました。その日だけで三千人の人たちがイエスさまを信じました。 6月6日(土) 使徒二43-47  イエスさまを信じた人たちは、わがままを言うのではなく、みんなが助け合って生きていきました。心を一つにし、まごころを込めて、神さまを賛美していきました。神さまは毎日毎日、イエスさまを信じて救われる人を与えてくださいました。  何千人の人たちがイエスさまを信じたとか聞くと、私たちはびっくりしますし、うらやましくなります。そして何で、同じ神さまを信じているのに、私たちの日本の教会は集まる人が少ないのだろうと寂しくなります。知ってください。ペンテコステの日に注がれた聖霊は、今の日本の教会にも、そして、イエスさまを信じているみんなにも注がれています。聖霊は今も生きて働いておられます。現れ方は違うかも知れません。でもどうか失望しないでください。神さまは日本の私たちをも愛しておられるからです。 6月7日(日) 使徒三1-10  この足の悪い男の人は、毎日、乞食をして生きていました。ペテロたちからもお金がもらいたいと思っていました。でもこの男の人がもらったのはもっとすばらしいものでした。 6月8日(月) 使徒三11-16  今まで歩けなかった人が踊りながら神さまを賛美しているのを見て、みんなが集まってきました。ペテロはその人たちにイエスさまの十字架と復活を話しました。この救い主であるイエスさまを信じたので、この男も救われたのです。 6月9日(火) 使徒三17-26  ペテロは人々に話します。「悔い改めて本心に立ち返りなさい。神さまが送ってくださった救い主イエスを信じなさい。このイエスは旧約聖書の中でずっと預言され。指し示されていた方なのだ」。 6月10日(水) 使徒四1-12  祭司たちは弟子たちを捕まえて、偉い人たちが集まって取り調べをしました。弟子たちは、イエスさまは十字架につけられて死なれたけれど、よみがえってくださったこと、この方こそだけが私たちを救ってくださる救い主であることを大胆に証ししたのです。 6月11日(木) 使徒四13-22  偉い人たちは弟子たちにイエスさまのことを話してはいけないと言いました。弟子たちを脅しました。でも弟子たちはひるむことがありませんでした。何と言われても、自分たちが神さまに従っていることを知っていたからです。 6月12日(金) 使徒四23-31  弟子たちはまたみんなのところに帰りました。そしてその日に起こったことを報告しました。教会はみんなで弟子たちがこれからも思い切って大胆に神さまのことを話すことができるようにとお祈りしたのでした。 6月13日(土) 使徒四32-37  信じた人たちは心と思いを一つにしていました。持ち物やお金をたくさん持っている人は持っていない人にわけてあげました。神さまの大きな恵みが注がれていたので、そうしないではおれなかったのです。  始まったばかりの教会に大変な問題が起こります。問題のない教会はありません。わたしたちはみんな罪深いからです。失敗することも、誰かとどうしても合わないというようなこともあるかもしれません。問題があるのは問題ではありません。それは自然なことです。大切なのは問題とどう向き合い、どう解決するかなのです。問題としっかりと向き合っていくことによって教会はますます成長し、整えられていったのです。 6月14日(日) 使徒五1-11  献金をするのはすばらしいことです。問題はアナニヤとサッピラがみんなによく見られたかったからでしょうか、嘘をついたことです。嘘なんて誰でもつくじゃない、嘘ぐらいいいじゃないと言わないでください。神さまは嘘がおきらいです。ダメで弱くても、正直であることを喜んでくださるのです。 6月15日(月) マタイ十五1-9  イエスさまの時代の聖書の先生たちは聖書をよく知っていましたけれど、いつも細かいことばかり言って、人にどう見られるかということばかり気にしていました。その心は神さまから離れていたのです。 6月16日(火) マタイ十五10-20  イエスさまは食べるものが人を汚すのではないとおっしゃいました。大事なのは何を食べるかよりも、その心の中に何が入っているかです。心の中に悪い思いがいっぱい入っていると、悪いことをするようになるのです。 6月17日(水) 詩篇三二1-11  ダビデ王様がとても悪いことをしたとき、最初はそれを内緒にしようとしました。ごまかそうとしました。でも、ダビデ王様は苦しくなってきます。王様が神さまに告白し悔い改めた時、神さまはゆるしてくださいました。 6月18日(木) 詩篇五一1-14  ダビデ王様は神さまが真実を求められる方であることを知っていました。でも自分がどんなに罪深いかを思い、ダビデは、わたしのためにきよい心を造ってください、と祈るのです。 6月19日(金) 詩篇五一15-19  神さまは、私たちが神さまのために何かをするよりも、真実であること、かっこ悪くても、罪深くても、そのままみじめな自分を認めて、正直に自分の罪を悔い改め、神さまに近づくことを喜んでくださいます。 6月20日(土) エペソ四25-32  神さまは嘘はおきらいです。嘘をつくのはやめて神さまの前にも、人に対しても真実でいましょう。悪い言葉を使わず、人に対して怒ったり、悪意をいだくことのないようにしましょう。そのひとのことを思いやり、ゆるしあうことのできる仲間でいたいと思います。  今から六七年ほど前の六月二六日朝早く、日本ホーリネス教会の牧師たちが全国で一斉に捕まえられて警察で取り調べを受けました。一年以上も出て来れなかったり、牢屋の中で死んだ先生もいます。イエスさまが神さまで、また帰ってきて王として治めるとはけしからん。日本には天皇陛下がいるのだ。天皇とイエスとどちらが偉い?天皇もイエスに裁かれるのか?いろいろなことを言って、教会は閉鎖され、牧師先生たちはクビになりました。イエスさまから離れて行った人たちもたくさんいました。あなたはどこまでイエスさまについて行けますか? 6月21日(日) 使徒五12-16  使徒たちを通してすばらしい神さまの奇跡がどんどん起きていきました。主を信じる人がどんどん増えていきました。あなたはもうイエスさまを信じましたか? 6月22日(月) 使徒五17-21  使徒たちはすごい人気です。そのことをねたましく思う人たちは使徒たちを捕まえます。でも神さまは彼らを助けてくださいました。それは彼らがこれからも命の言葉を人々に語り続けるためでした。 6月23日(火) 使徒五21-32  弟子たちはせっかく助かったのだから逃げてしまえというのではなく、また捕まえられることも恐れないでイエスさまのことを人々に語ります。イエスさまのことを話すなと言われても、神さまが話せとおっしゃっていたら。神さまに従わないわけにはいかないからです。 6月24日(水) 使徒五33-42  使徒たちをどうしたらいいか、議会ではみんなで話し合います。議会では使徒たちをむち打ちにして、イエスさまのことをこれ以上話さないようにと言います。でも使徒たちは話し続けたのでした。 6月25日(木) 詩篇八一1-16  神さまはイスラエルの人たちがエジプトで奴隷であったところから救いだし、イスラエルの人たちに、「私に聞き従うように」とおっしゃいました。神さまに従うことはどんな時にもとても大切なことです。 6月26日(金) 申命記十一8-12 神さまはイスラエルの人たちのためにすばらしいところを用意してしておられました。ただ、その神さまが備えられたすばらしい地で、長く、幸せに生きるためには、神さまに従うことが一番大事でした。 6月27日(土) サムエル上十五22  サウル王様は神さまの言葉を聞きながら、でも自分はこう思う、自分はこうしたいと、自分の決めたとおりにしました。そして後で、どうしてそう決めたのかいろいろ言い訳をしましたけれど、でもどんな理由があっても、従うことが一番大事なのです。  最初教会では十二人の使徒たちがいろいろなことを全部やっていました。弟子たちが多くなって来たときに、使徒たちは七人の執事たちを選び、その仕事をわけていきます。私たちは何でも自分一人ではできません。だから神さまは私たち一人一人を違った存在として造り、みんなで助け合い、支え合って神さまの教会を造っていくことを願っておられます。教会でも牧師さんがいて、教会学校の先生がいて、役員さんがいて、聖歌隊の人がいて、奏楽の人がいて、会計さんがいて・・・いろいろな人がいますよね。あなたにできることはなんでしょうね。 6月28日(日) 使徒六1-7  選ばれた七人の人たちは信仰と聖霊に満ちた人たちでした。神さまのご用をするためには、頭がいいだけではだめなのです。神さまに力をいただくのです。 6月29日(月) 1テモテ三1-7  監督って今で言うと「牧師」や「教団委員長」のようなものかもしれませんね。そういう仕事をしたいと思ったら、まず自分をしっかり造り上げていくことです。神さまの前にも人の前にも正しく、喜ばれる人になってください。牧師さんたちのためにもお祈りしてくださいね。 6月30日(火) 1テモテ三8-13 執事は「役員さん」です。この人たちは教会のいろいろな雑用も喜んでします。神さまと人に心から仕えていくのです。執事もまた生活の伴った信仰の持ち主でなければいけません。 7月1日(水) 1テモテ三14-四5  神さまの家である教会につながる人として、どう生きるかをいつも考えていましょう。神を信じ、信じる者にふさわしい生き方をするのです。悪魔にだまされないようにいつも目をさましていましょう。 7月2日(木) 1テモテ四6-10  イエスさまのよい奉仕者になるためには訓練が必要です。自分の好きなことを自分の好きなようにしていたらいつの間にか立派な信仰者・奉仕者になっているということはないのです。 7月3日(金) 1テモテ四11-16  テモテはまだ若い牧師でした。でも神さまのご用をするテモテに、パウロは他のみんなの模範になるようにと言います。いばって、みんなに命令して、言うことを聞かせるのではないのです。 7月4日(土) 1コリント一二4-11  教会にはいろいろな人がいます。同じ人は一人もいません。だれかと同じになる必要もありません。神さまがあなたをあなたとして造り、あなただけものとしてすばらしい賜物・才能を与えてくださっているのです。そして、そのみんなを造られたのは同じひとりの神なのです。