新年あけましておめでとうございます。一年の初めからみんなが教会に来てくれたことを心からうれしく思います。教会にも、聖書を読むことにも、お祈りをすることにもお休みはありません。だって、みんな冬休みだって、ご飯を食べるでしょう。もちろん、たくさん食べ過ぎて、一回ご飯をとばすことがあったとしても、ちゃんとご飯を食べるよね。それと一緒です。今年も、神さまと一緒に歩んでいきましょう。 1月3日(日)  ヨハネ二1-12  昔、イスラエルの結婚式ではぶどう酒がかかせませんでした。でもそのぶどう酒がなくなってしまったのです。でもイエスさまは、水をぶどう酒に変えてくださいました。そのぶどう酒は最高のものでした。神さまはけちけちしていません。いつでも、私たちに最高のものをくださるお方です。 1月4日(月)  ヨハネ二13-25  「宮の庭」とはユダヤ人以外の人たちが、神さまを礼拝する場所でした。けれども、そこでお店を広げてお金儲けをしている人たちがたくさんいました。イエスさまは怒って、その人たちを追い払いました。神さまの家のことをとても熱心に思っておられたからです。 1月5日(火)  詩篇三六  神さまは豊かなお方で、豊かな祝福を私たちに与えてくださいます。私たちはこの神さまの豊かな恵みに触れて満足するのです。不平不満ばかりで生きていくのではなくて、神さまに感謝せずには」いられなくなるのです。 1月6日(水)  詩篇六五  神さまは私たちが罪人であることも知っておられます。けれども、そんな私たちをそばに近づけ、豊かな恵みを与えてくださいます。私たちの歩みに神さまの祝福があふれ、私たちは喜びにあふれます。 1月7日(木)  詩篇一四五  私たちは神さまがどんなにすばらしい方であり、どんなに大きなこと、すばらしいことをしてくださっているかを深く思いたいと思います。私たちが何かをしたからではなく、私たちをあわれみ、豊かな恵みをくださる神さまをたたえましょう。 1月8日(金)  2コリント九8  神さまはいつも、すべてのことに満ちたらせてくださるお方です。それは自分が得をして終わりではなくて、いただいた恵みを良いわざのために使うためでもあるのです。 1月9日(土)  ローマ十9-13  神さまはどこの国の人でも愛していてくださいます。主を呼び求め、心で信じ、口でその信仰をみんなに言う人を神さまは豊かに恵んでくださいます。イエスさまを信じて、がっかりして終わりということは絶対にありません。  神さまはイエスさまを信じる人を救い、天国に行けるようにしてくださいます。あなたはイエスさまを信じていますか? イエスさまを信じるとは、自分の心の中にある罪を認め、ごめんなさいと、神さまにおわびして、あなたのために、あなたの身代わりになって、あなたの罪を負い、十字架で死んでくださったイエスさまを、救い主として受け容れることです。まだ、あなたがイエスさまを信じて、みんなの教会の先生にお祈りしてもらってください。 1月10日(日)  ヨハネ三1-8  ニコデモは聖書をよく知っていました。先生でした。みんなから尊敬されていました。けれども、イエスさまは、それだけでは足りないよとおっしゃり、新しく生まれなければ神の国を見ることはできない、とおしゃいました。ニコデモはびっくりしました。 1月11日(月)  ヨハネ三9-14  ニコデモにはイエスさまのお話がよくわかりませんでした。新しく生まれるとは自分でがんばってすることではありません。永遠の命は、十字架について上げられる主イエスを信じる人に与えられるのです。 1月12日(火)  ヨハネ三16  神さまはこの世を愛してくださいました。私たちをみんな愛してくださって、救い主イエスさまを送ってくださいました。だから、このイエスさまを信じる人は永遠の命を持つのです。 1月13日(水)  ヨハネ三17-21  私たちは罪を犯し、本当は神さまにさばかれて地獄に行くことになっていました。でもイエスさまを信じる人はさばかれることはありません。イエスさまが身代わりになって死んでくださったので、もう罪の罰を負うことはないのです。 1月14日(木)  ヨハネ三22-30  イエスさまのところに大勢の人たちが集まるようになった時、バプテスマのヨハネのところは少しさびしくなりました。でもヨハネは、みんながイエスさまのところに行ってくれたらそれが一番うれしいと言いました。ヨハネはイエスさまのことをみんなに知ってもらいたかったからです。 1月15日(金)  ヨハネ三31-35  イエスさまは人となって天から下ってくださいました。そして、このイエスさまを信じる人は永遠の命を持つのです。あなたはイエスさまを信じていますか? 1月16日(土)  2コリント五17  どんな人でも救い主イエスさまを信じる人は、新しく造られた人です。罪を犯して滅んでいく、古い私ではなく、新しい私にしていただいたのです。イエスさまを信じると新しく生まれます。神の子としての人生が始まるのです。  イエスさまのところにはいろいろな人が来ました。先週、聖書で読んだニコデモはとても偉い先生でした。今日読む女の人は、名前も分からないサマリヤの人です。病気の人・元気な人、勉強ができる人・できないひと、お金持ち・お金のない人・・・いろいろな人がイエスさまの所に来ました。そして、どんな人でもイエスさまを信じたら救われました。その人の人生が変わりました。今も教会にはいろいろな人が集まってきます。でも大人でも子どもでも、イエスさまを信じる人はみんな救われるのです。 1月17日(日)  ヨハネ四1-15  イエスさまはスカルの町の井戸のそばで女の人に声をかけてくださいました。イエスさまはこの女の人に生ける水、決してかわくことない水、永遠の命を与える水をあげたいと思っておられたのです。 1月18日(月)  ヨハネ四16-26  この女の人は五回も結婚・離婚をしていました。でもこの女の人を本当に幸せにしてくれる人はいませんでした。でもイエスさまはこの女の人も救うことのできる救い主として、この女の人の前に立っておられたのです。 1月19日(火)  ヨハネ四27-38  女の人は町に行って、みんなにイエスさまのことを話しました。イエスさまがサマリヤの女の人とお話ししているのを見たお弟子さんたちは不思議に思いました。でもイエスさまは、多くの人たちが救い主を信じる借り入れの時が来ているのだとおっしゃったのでした。 1月20日(水)  ヨハネ四39-42  女の人の話を聞いてイエスさまのところに出て来たスカルの人たちは、もっとイエスさまのお話を聞いて、イエスさまを信じました。イエスさまがまことの救い主だとわかったからです。 1月21日(木)  ヨハネ四43-54  イエスさまがカナにおられた時、カペナウムから一人の男の人が来ました。この人の子どもが病気で死にそうだったのです。イエスは「あなたの息子は助かる」とおっしゃいました。この人はイエスさまの言葉を信じて家に帰ったのでした。 1月22日(金)  イザヤ三五  荒野に水がわき、さばくに川が流れて、花が咲いていく。イザヤはそのように預言をしました。見えない人も見えるようになり、聞こえない人も聞こえるようになりました。心の渇いていた人たちに命の水が与えられました。 1月23日(土)  イザヤ五五1-7  この生ける水はだれでもただでいただくことができます。大事なことがあります。イエスさまのところに行って、その水を私も下さいと、お願いすることです。イエスさまは今も生ける水を下さいます。  聖書の中にはイエスさまが病気の人をいやしてくださった記事がたくさんでてきます。イエスさまは力があり、私たちのどんな病気でもいやすことがおできになります。イエスさまは昔も今も変わりません。私たちは自分や家族や、お友だちが病気の時に、イエスさまにお祈りすることができます。でも、イエスさまにはいやす力があるのに、お祈りしても病気が治らないことがあります。でも、知っていてほしことがあります。イエスさまはそれでも力があるし、それでも、あなたのことを愛していてくださっているということです。 1月24日(日)  ヨハネ五1-9  三八年間も病気に悩んでいると治る希望も夢も期待もなくなってしまうものです。イエスさまはこの人に治りたいという願いがあるのを知って、この人をいやしてくださいました。 1月25日(月)  ヨハネ五10-18  イエスさまはこの人に、「もう罪を犯してはいけない」とおっしゃいました。この人の病気には、何かの罪が関係していたでしょう。イエスさまは体が元気になって終わりではなく、この人が神さまに喜ばれる新しい生き方をしてほしいと願っておられたのです。 1月26日(火)  ヨハネ五19-30  今は良いことをしていても悪いことをしていても、みんな死にます。でも、やがてイエスさまがもう一度来られる日が来ます。そうしたら、生命を受けるためによみがえる人と、さばきを受けるためによみがえる人がいます。 1月27日(水)  ヨハネ五31-40  イエスさまは父なる神につかわされてこの世に来てくださいました。旧約聖書にはイエスという名前は出て来ませんけれど、旧約聖書で言われていたのはイエスさまのことだったのです。 1月28日(木)  ヨハネ五41-47  モーセはイエスさまよりも千五百年ほど昔の人です。イエスさまがきらいな人たちでも、モーセのことは大好きでした。でもイエスさまは、モーセが旧約聖書の中で言っていたのは、私のことなんだよ、と教えられました。 1月29日(金)  1ヨハネ五13-15  自分勝手で、わがままな、自分のできることをさぼるようなお祈りは聞かれません。けれども、神さまの心にそったお祈りは必ず聞いていただけます。神さまのみこころを求めながら、大胆に求める者でありたいと思います。 1月30日(土)  ヤコブ一5-8  神さまはくださるかなあ、くださらないかなあ、と疑った来、神さまにもできないかもしれないと思いながらお祈りするのはとても失礼です。信じて求めることです。神さまは信仰の祈りに答えてくださるからです。  モーセは昔、イスラエルの人たちをエジプトから救い出しました。二百万人ともいわれる人たちにどうやって食べるものを用意したらいいでしょうか。あたりは荒野と言って何もないところです。でも、神さまはちゃんとイスラエルの人たちを養ってくださいました。イスラエルの人たちはマナを食べて元気に旅をしました。  イエスさまが五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人の人たちを養われた時、人々はきっとモーセの時のことを思い起こしたのでしょう。イエスさまはモーセよりもずっと偉大な救い主でした。 1月31日(日)  ヨハネ六1-15  弟子たちのところにあったのは一人の子どもがもっていたお弁当。たった五つのパンと二匹の魚だけでした。でもイエスはそれを感謝し、祝福し、みんなを満腹させてくださいました。 2月1日(月)  ヨハネ六16-21  弟子たちが大嵐の海の上で困り切っていた時、イエスさまは水の上を歩いて弟子たちに近づいてくださいました。イエスさまは「わたしだ、恐れることはない」と声をかけて下さいました。イエスさまは今日も私たちに近づいてくださいます。 2月2日(火)  ヨハネ六22-33  イエスさまを見つけた人たちはもっとたくさん奇跡を見せてほしいと思いました。けれども、イエスさまは一番大事なのは、神さまが送られた救い主であるイエスさまを信じることだとおっしゃいました。 2月3日(水)  ヨハネ六34-40  命のパンを食べるとは、イエスさまを信じることです。そしてイエスさまを信じる人は、決してかわくことも、飢えることもありません。喜びをもって生き生きと歩んでいくことができるのです。 2月4日(木)  ヨハネ六41-51  イエスさまが自分は天から、神さまの所から来たとおっしゃったとき、ユダヤ人たちは、イエスさまのことを嘘つきだと思いました。けれどもイエスさまを神の子、救い主と信じる人は永遠の命が与えられるのです。 2月5日(金)  ヨハネ六52-59  わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むとは、イエスさまを信じることです。イエスさまを信じる人は永遠の命を持ち、たとい死んでも終わりの日、イエスさまた来られる日に生命によみがえるのです。 2月6日(土)  ヨハネ六60-71  イエスさまのお話になったことが分からなくて、イエスさまを信じないで、イエスさまから離れていく人たちもたくさんいました。でもペテロたちは、「永遠の命の言を持っているのはあなたです」と言ってイエスさまについていきました。  主イエスさまは私たちを救うためにこの世に来てくださいました。私たちは救われなければならないような大ピンチだったからです。私たちは滅びるところでした。永遠に地獄で神さまの裁きを受けなければならなかったのです。一生懸命あやまって、これからは悪いことをしませんとがんばったらいいでしょうか。私たちががんばるのは大事ですが、それで救われるわけではありません。自分の罪をおわびして、イエスさまを救い主として信じることです。その時に、神さまは私たちの罪をゆるしてくださるからです。 2月7日(日)  ヨハネ七1-24  イエスさまは父なる神さまから聞いたことをみんなに伝えました。父なる神さまに栄光をお返しする生き方をしておられました。イエスさまは自慢したり、得意になったりしませんでした。 2月8日(月)  ヨハネ七25-36  イエスさまが旧約聖書に約束されていた救い主キリストだという人と、イエスは神さまに逆らう大嘘つきだという人たちがいました。まだイエスさまはつかまえられていませんでしたが、ご自身は十字架で死ぬことを知っておられました。 2月9日(火)  ヨハネ七37-52  イエスさまは信じた人たちは、必ずしも多くはなかったようです。特に偉い人たちはみんなイエスがきらいでした。でもイエスさまを信じる人は昔も今も、救われて、御霊が一緒にいてくださいます。 2月10日(水)  ヨハネ八1-11  悪いことをした女の人が捕まえられてきました。イエスさまはそこに集まった人たちに、罪のない人がまず石を投げなさいとおっしゃいました。罪のない人はだれもいませんでした。イエスはこの女の人の罪をゆるしてくださいました。 2月11日(木)  ヨハネ八12-20  イエスさまは光です。どんなに暗いところを歩いている人も、どんなに暗い心の人もイエスさまのところに来ると命の光を持つことができます。イエスさまのおっしゃることはいつも本当です。安心して聞いて大丈夫です。 2月12日(金)  ヨハネ八21-30  イエスさまは神さまから送られた神の子です。そしてイエスさまには特別な使命がありました。イエスさまは十字架について上げられることになっていたのです。イエスさまはそれを知っておられました。 2月13日(土)  ヨハネ八31-38  罪を犯す人は罪の奴隷です。私たちはみんな罪の奴隷でした。罪の言うことに逆らえなくて、神さまの悲しまれること、神さまを怒らせることばかりしていたのです。けれども、イエスさまはそんな私たちに自由にしてくださいます。  いろいろ大変な中にいる人がいると私たちはかわいそうだなあと思います。そして、あまりにひどいことが次から次に起こると、何か悪いことをしたから罰が当たったんだとか、神様に見捨てられたとか、神様なんていなんだと言ったりします。大変なこと、つらいこともあるかもしれません。けれども、それは神様から見捨てられているのではありません。神様は、あなたのために、そのお友だちのために特別なご計画をもっておられるのです。 2月14日(日)  ヨハネ八39-47  ユダヤ人たちは自分たちの先祖はアブラハムだといばっていました。確かにアブラハムはすばらしい信仰の人でした。ですからもし、アブラハムの子孫で、神の子だというなら、それらしい生き方をしなさいとイエスさまはおっしゃいました。 2月15日(月)  ヨハネ八48-59  イエスさまは神の子で、アブラハムの生まれる前から天におられました。実際、アブラハムは、救い主イエスさまが来られるのを楽しみにしていました。救い主の来られる日こそ、アブラハムに与えられた約束が実現する時だと言うことを知っていたからです。 2月16日(火)  ヨハネ九1-12  イエスは目の見えない人がそうなのは、ただ神のみわざが現れるためだとおっしゃいました。この人は罰を受けているのでも、神様から嫌われているのでもなかったのです。そして、この人を見えるようにしてくださいました。 2月17日(水)  ヨハネ九13-23  その日は安息日でした。パリサイ人たちはイエスさまが安息日に目の見えない人を直したと言って怒ります。安息日に大切なのは何も仕事をしないことと信じていたからです。 2月18日(木)  ヨハネ九24-34  目の見えるようになった人は、細かいこと・詳しいことは何もわかりませんでした。けれども、見えなかった自分が見えるようになったと、イエスさまが神様から送られたお方であることを信じたのでした。 2月19日(金)  ヨハネ九35-41  体の目が見える見えないということ以上に大切なのは、心の目が見えるかどうかということです。心の目が見えるとイエスさまがどんなお方かがよくわかるのです。イエスさまに心の目がよく見えるようにしていただきましょう。 2月20日(土)  ローマ五1-11  罪人であった私たちが神様に愛していただいて、救われ、神を喜ぶものにされました。それはただ、救われたというだけではありません。神様は豊かなご自身の栄光を与えようと、私たちのためにご計画をもっていてくださるのです。  みなさんは動物が好きですか。動物を飼ったことがありますか?生き物を飼ってお世話をするって結構大変ですよね。イスラエルの人たちは昔から牛や羊を飼っていました。アブラハムも、モーセも、ダビデも、羊を飼っていたことがあります。羊飼いさんは何十匹も、何百匹も羊を連れて、えさをやったり、水を飲ませたり、とてもとても大変な仕事なのです。羊が好きでないと絶対につとまりません。神様も羊飼いさんたちのように、私たちのことを守り、養ってくださいます。 2月21日(日)  ヨハネ十1-6  羊飼いはどれだけたくさん羊がいても、きちんと名前を知っています。そして毎日名前を呼んでえさの場所に連れて行きます。羊はちゃんと羊飼いの声を聞き分けてついて行きます。あなたは神様の声が聞き分けられるかなあ。 2月22日(月)  ヨハネ十7-15  イエスさまはよい羊飼いです。よい羊飼いは羊が豊かに命を得られるように羊を守ります。そして、よい羊飼いは羊を愛して羊のために命も捨てます。知ってください。私たちのまことの羊飼いであるイエスさまは私たちのために本当に命を捨ててくださったのです。 2月23日(火)  ヨハネ十16-21  イエスさまは、まだ囲いにいない羊がいるとおっしゃいました。まだイエスさまのことも教会のことも知らない人たちが私たちの周りにはたくさんいます。イエスさまはその人たちのためにも死なれたのです。 2月24日(水)  ヨハネ十22-42  イエスさまは神の子です。そしてイエスさまについてくる人は永遠の命をいただくことができます。ユダヤ人たちはイエスさまを信じませんでした。私たちはイエスさまを信じてついていこうね。 2月25日(木)  詩篇二三  神様は私たちの羊飼いです。このお方についていったら、このお方は私たちのすべての必要を満たしてくださいます。このお方はいつも私たちといっしょにいて、私たちを神様の恵みにあふれさせてくださるのです。 2月26日(金)  エレミヤ二三1-8  王様や国の偉い人たちは、みんなを助け、羊飼いのように守る責任がありました。けれどもこの人たちは自分の事ばかりで、みんなのことは考えません。エレミヤは神様がやがて本当の羊飼いを送って下さると預言しました。 2月27日(土)  エゼキ三四23-31  エゼキエルは、国の偉い人たちがみんなのことを全然考えないので、みんなは迷い、傷つき、倒れていると言います。神様はイスラエルの人たちはみんなじぶんの羊だから、自分が探し、養い、強くする、とおっしゃいました。  親しい誰かが死んでしまう時にとても悲しく寂しい気持ちがします。かわいがっていたペットでもそうです。そして、私たちのまわりにいるこの人あの人だけでなく、私たちもやがて死んで行きます。ラザロが生き返えらせてもらったなら、自分の大事なあの人も生き返らせていただきたいと本当に思います。神様は今でも同じことをすることがおできになります。でもおそらくそれはなさいません。この世で生き返るよりももっと大きなことを神様は私たちのためにしようとしていてくださるからです。 2月28日(日)  ヨハネ一一1-16  イエスさまはマルタ、マリヤ、ラザロの三兄弟をとても愛しておられました。でもラザロが病気の時に、イエスさまはなかなかベタニヤに行かれません。イエスさまはラザロの病気が治るのとは別のことを考えておられたからです。 3月1日(月)  ヨハネ一一17-27  イエスさまがベタニヤに着いた時にはもうラザロは死んで、お葬式も終わっていました。けれどもイエスさまはマルタに、わたしはよみがえりであり命だとおっしゃって、マルタに信じるようにとおっしゃったのでした。 3月2日(火)  ヨハネ一一28-37  イエスさまは泣いているマリヤに出会った時、マリヤと共に涙を流してくださいました。主は私たちが悲しむ時、その悲しみを分かってくださるお方です。でもマリヤたちの悲しみは悲しみで終わりませんでした。 3月3日(水)  ヨハネ一一38-44  イエスは墓の入り口をふさいでいた大きな石を取りのけさせました。もし信じるなら神の栄光を見る。そしてマルタとマリヤは本当に神の栄光を見ます。イエスさまが御言葉によって呼びかけられた時、ラザロは生き返ったのです。 3月4日(木)  ヨハネ一一45-57  多くの人たちがイエスさまを信じました。でも国の偉い人たちは、今の小さな平和が崩れることを心配していました。みんなが滅びるより、一人が代わりに死んだほうがいい。イエスを殺す計画が進んでいきます。でも、イエスの死は本当にみんなの身代わりでした。 3月5日(金)  ヨハネ一二1-11  十字架の日が近づいてきました。マリヤは高価で純粋なナルドの香油をイエスさまにささげます。イエスさまへの感謝があふれていたからです。イエスさまがこれからしようとしておられることをマリヤは分かっていたからです。 3月6日(土)  ヨハネ一二12-19  イエスさまはロバの子にのってエルサレムに入城されます。その時、みんなはホサナ!と叫びます。ホサナとは「おお、救ってください!」という意味です。救い主としてイエスさまをお迎えしたのです。  イエスさまは神の子なのに人になってこの世に来てくださいました。神の子なのにイエスさまは全然いばりません。不思議な奇跡もたくさんなさったのに自慢しません。かえってイエスさまは、みんなを愛し、みんなに仕えてくださいました。みんなの家来やめしつかいのように、みんなに仕えて、最後は私たちが救われるために、自分の命までも与えてくださいました。今の時代にイエスさまが見える形で日本におられたら、いったい何をされるでしょうか。イエスさまのお手本のまねをするものでありたいと思います。 3月7日(日)  ヨハネ一二20-26  イエスさまは自分が十字架について死ぬことを知っておられました。一粒の麦のように、死んでくださったのです。でもイエスさまが死んでくださったことによって、私たちは救われたのです。 3月8日(月)  ヨハネ一二27-43  イエスさまを通して神様のすばらしさが表されました。それが一番あらわされたのはイエスさまの十字架でした。私たちも私たちの光としてくださったイエスさまを信じましょう。イエスさまは私たちも光としてくださいます。 3月9日(火)  ヨハネ一二44-50  イエスさまがこられたのは、イエスさまを送ってくださった父なる神様がどんなにすばらしいお方かを示すためでした。イエスさまを信じないで生きる生き方はまっくらな中を歩むような生き方です。けれどもイエスさまを信じる人は光の中を歩むのです。 3月10日(水)  ヨハネ一三1-11  お客さんの汚れた足を洗うのはどれいの仕事でした。だれもそんな仕事はしたくありません。けれど、イエスさまはお弟子たちの足を洗ってくださいました。私たちのきたない心も洗ってくださいます。 3月11日(木)  ヨハネ一三12-20  イエスさまはお弟子さんたちにも、私と同じようにしなさいとおっしゃいました。イエスさまに一番汚いところ、足よりももっと汚い心を洗っていただいた人は、イエスさまのような生き方ができるようになるのです。 3月12日(金)  ヨハネ一三21-30  イエスさまはイスカリオテのユダが自分を裏切ることを知っておられました。けれども、イエスさまはユダにも悔い改めてほしいと願っておられたのです。だから何度もチャンスをくださっていたのです。 3月13日(土)  ヨハネ一三31-38  イエスさまはお弟子たちに新しいいましめを与えられました。それは互いに愛し合いなさいと言ういましめでした。イエスさまにあいされていることを知っている人は、イエスさまのお弟子にしていただいた人は愛し合うのです。  先週の日曜日に学んだ聖書は、イエスさまが十字架につけられる前の日の出来事です。イエスさまは自分が十字架につけられることを知っておられました。弟子たちにもそのことを話しておられました。けれども弟子たちはイエスさまが言っておられることが分かりませんでした。イエスさまが王様になって、ローマをやっつける。そうしたら誰が大臣になるか・・・そんなことばかり考えていたのです。しかし、イエスさまは祈って進んで行かれました。 3月14日(日)  ヨハネ一四1-14  弟子たちはイエスさまが分からないことをおっしゃるので、不安になっていたかもしれません。けれどもイエスさまは神を信じ、わたしを信じなさいとおっしゃいました。イエスさまは本当の、ただ一つの救いの道です。イエスさまを信じると神様のところに行けます。 3月15日(月)  ヨハネ一七1-5  イエスさまの祈りです。まず、最初にイエスさまはご自身のために祈られました。イエスさまは自分が「父よ」と天の神様にお祈りする時、神様が聞いていて下さることを知っておられました。 3月16日(火)  ヨハネ一七6-19  イエスさまはお弟子たちのためにお祈りなさいました。お弟子たちがこの世に住みながらも、悪魔のけらいになってしまうのではなく、神様のものとして仕えていくことができるようにお祈りなさいました。 3月17日(水)  ヨハネ一七20-26  イエスさまは次にお弟子たちの後に、イエスさまを信じる人たち、私たちのためにも祈って下さいました。私たちが心を一つにして神様のために生きることができ、そのことによって世界中の人たちが神様の愛を知るように、お祈りしてくださったのでした。 3月18日(木)  ヨハネ一八1-11  イエスさまのところにイスカリオテのユダがやって来ました。たくさんの人たちが武器を持って近づきます。けれどもイエスさまは逃げないで、私がそれだ、とおっしゃいました。イエスさまは十字架に向かってまた進んで行かれます。 3月19日(金)  ヨハネ一八12-18  イエスさまはまずアンナスのところに引っ張って行かれます。こっそりついて行ったペテロは、「あの人の弟子でしょ」と言われた時に、「違う」と言ってしまいます。怖くなってしまったのです。 3月20日(土)  ヨハネ一八19-27  ペテロはまた庭に立って火にあたっていました。でも自分がイエスさまの弟子であることがばれそうになった時、ペテロはまたイエスさまのことを知らない、知らない、全部で三回言ってしまいました。イエスさまのお言葉のとおりでした。  イエスさまはつかまってから何回も裁判を受け、夜通し、あちからこちら引っ張って行かれます。アンナス→カヤパ→ピラト→ヘロデ→ピラト。カヤパはユダヤ人で大祭司でした。カヤパとユダヤ人たちはイエスさまが神様を馬鹿にしている、冒涜していると言って、死刑を宣告します。けれども、ローマの支配を受けていたユダヤ人たちは死刑をすることができなかったので、ローマの総督ピラトのところに連れて行って、この人はローマの皇帝に逆らって自分は王だと言っていると訴えたのです。 3月21日(日)  ヨハネ一八28-40  イエスさまはローマの総督ピラトのところに送られました。ピラトはイエスさまが何も悪いことをしていないことが分かっていました。確かにイエスさまは王でした。でもそれはローマの皇帝とは大きく違っていました。 3月22日(月)  ヨハネ一九1-7  「見よ、この人だ」ピラトはイエスさまをみんあの前に引き出しました。イエスさまは紫の上着をまとい、いばらの冠をかぶっていました。ユダヤ人たちは「十字架につけろ」と叫びました。イエスさまを信じなかったからです。 3月23日(火)  ヨハネ一九8-12  確かにピラトはイエスを十字架につける権威を持っていました。でもピラトよりもカイザルよりもずっとずっと大きな権威を権威をもっておられる方がイエスさまと共におられました。 3月24日(水)  ヨハネ一九13-16  イスラエルでは本当は神様が王様なのです。でもイエスさまをねたんで絶対に殺そうとした人たちは、イエスさまは王様ではない。カイザル(ローマ皇帝)だけが自分たちの王様だと言ってしまったのでした。彼らは本当の王様を捨てたのです。 3月25日(木)  詩篇二四1-10  世界とその中にあるものは神様のものです。神様こそが私たちの本当の王様です。このお方は私たちのことを愛し、支え、必要なものを与えてくださいます。私たちはこの王様を受け入れ、この方を礼拝し、この方に従うのです。 3月26日(金)  1サム八1-9  イスラエルの国に最初の王様が立てられた時、イスラエルの人たちは神様だとちょっと頼りないから、神様ではなくて、戦いに一緒に行ってくれる目に見える王様がほしいと思ったのです。他の国と同じになりたかったのです。 3月27日(土)  黙示録一七14  ここで「小羊」とは、私たちのために十字架にかかって死んでくださった主イエスさまのことです。このイエスさまは王の王、主の主です。そして、このイエスさまと一緒にいる人たちはイエスさまと一緒に勝利者になるのです。  イエスさまは偉い宗教家たちにねたまれて、十字架につけられてしまいました。十字架は一番残酷な死刑なので、ローマ人たちは自分の国の人には十字架をしなかったほどです。苦しんで苦しんで苦しんで、少しずつ死んでいくのです。イエスさまは誰かの悪口を言ったり、誰かを呪ったりすることなく、十字架の苦しみを負ってくださいました。罪のないイエスさまが、私たちの罪を負って死んでくださり、私たちのために救いの道を開いてくださったのです。 3月28日(日)  ヨハネ一九17-22  十字架にはイエスさまの頭の上に、どんな悪い人かという札がかけられ、そこにはユダヤ人の王ナザレのイエス書かれていました。すべての国、すべての人の王であったイエスが、十字架の上で死なれたのです。私たちはこの十字架にかけられたイエスを信じるのです。 3月29日(月)  ヨハネ一九23-24  イエスさまの時、着物はとても大切で高価なものでした。ローマの兵隊たちが、イエスさまの上着を4つにわけ、下着はくじ引きでとりました。イエスさまはすべてを与え尽くされました。旧約聖書に書いてあるとおりでした。 3月30日(火)  ヨハネ一九25-27  イエスさまの十字架の下に、お母さんのマリヤがいました。イエスさまはマリヤさんのことをお弟子さんのヨハネにお願いしました。イエスさまは十字架の大きな苦しみの中でも、お母さんのことを心配されたのです。 3月31日(水)  ヨハネ一九28-30  イエスさまが「すべてが終わった」とおっしゃった時、それはもうおしまいだという悲しみと嘆きの叫びではありません。イエスさまは失敗したのではありません。イエスさまはすべてを成し遂げてくださったのです。 4月1日(木)  ヨハネ一九31-37  イエスさまは十字架の上で気絶しておられたのではありません。わきばらを刺されて流れた水と血はイエスさまの苦しみを表し、イエスが確かに死なれたことを示しています。 4月2日(金)  ヨハネ一九38-42  アリマタヤのヨセフもニコデモも、勇気を出してイエスさまのお体を受け取って葬りました。誰かからイエスさまの味方、イエスさまを信じている人と言われてもいいと覚悟を決めたのです。 4月3日(土)  イザヤ五三1-12  イザヤはイエスさまより七百年前に生きていた人です。けれども、やがて神様に送られる救い主が何をするのか、神様から教えられていました。救い主は、私たちの罪を身代わりに負って死んでくださった、その死によって、私たちの罪がゆるされる道が開かれたのです。