悪魔は目に見えません。でもいろいろな姿をとることがあります。まるで天使のようにやさしく甘く私たちにささやき、私たちをおだてて、上手に神に背かせようとするのです。ですから、私たちはいつでも注意をしていなければなりません。また、私たちは自分の力で悪魔に勝てると思わない方がよいでしょう。悪魔は私たちのことをよく知って巧妙に近づいてくるからです。私たちを悪魔に勝たせてくださるのは、神さまです。 10月4日(日) ルカ四1-15  イエスは四〇日荒野にとどまり、悪魔の試みにあわれました。イエスは石をパンにすることができたし、宮の頂上から飛び降りることくらいわけなかったでしょう。イエスさまは一躍人気者になれたことでしょう。でも、イエスは聖書の御言葉によって悪魔の誘惑に勝たれました。 10月5日(月) ルカ四16-21  イエスは自分の育たれたナザレの会堂で、イザヤ書六一章を開いて、七百年前に語られたこの御言葉が今、成就したのだとおっしゃいました。イエスはすばらしい救いのニュース、福音を持ってきてくださったのです。 10月6日(火) ルカ四22-30  故郷のナザレの人たちはイエスさまを信じるというよりも、イエスさまが何かびっくりするような奇跡を行われるのをみたいと思っていたのです。自分たちの本心を見抜いておられたイエスが、自分たちの思い通りにならなかった時、イエスを殺そうとしたのでした。 10月7日(水)  ルカ四31-37 悪魔はいろいろ仕方でイエスのなさることを邪魔しようとしました。けれども、イエスは権威と力をもって、その汚れた悪霊を追い出し、悪霊にとりつかれていた人を助けてくださいました。 10月8日(木) ルカ四38-41  イエスさまはシモン(ペテロ)の家に行かれました。シモンの奥さんのお母さんは高い熱を出し、熱が下がらなくて大変なことになっていました。けれどもイエスが命じられると、その病気は治ってしまいました。 10月9日(金) ルカ四42-44  イエスはどんな病気も、悪魔の力も打ち破って、困っている人たちを助けてくださいました。イエスさまはどんどん人気が出て来ます。でもイエスは次の町に移って行かれます。イエスは神の国の福音をもってたくさんの人たちに知ってほしかったからです。 10月10日(土)  エペソ六10-20 悪魔と戦うためには、神さまの力をいただき、神の武具を身につけなければなりません。悪魔をやっつける武具は神さまの御言です。神さまは私たちを強くして、私たちに勝利を与えてくださいます。  私たちは今は、イエスさまの声を耳で聞くことはできませんが、聖書を読むことによって聞くことができます。神さまの語りかけを耳で聞くことはないかもしれませんけれど、神さまは聖書の御言葉を通して、私たちの心に語りかけてくださいます。そして、神さまの語りかけを聞き続けていくと、心が元気になっていきます。毎日聖書の御言葉を読み続けようね。 10月11日(日) ルカ五1-11  ペテロたちは夜中漁をしたのに、何も執ることができませんでした。でもイエスさまの御言の通りにしたら、ものすごくたくさんの魚がとれました。イエスさまは驚くペテロたちに、これからは「人間をとる漁師になりなさい」とおっしゃいました。ペテロたちはイエスさまの御言葉に従って、人々を神さまのところに引き戻す漁師になりました。 10月12日(月) ルカ五12-16  イエスさまの所に重い皮膚病の人がやってきました。この病気になると汚れていると見なされました。イエスさまはこの人に手を伸ばして「きよくなれ」と、この人の病をいやし、きよめてくださいました。 10月13日(火) ルカ五17-26  中風という病気で動けない人を友だちたちがイエスさまの所に連れてきてくれました。家がいっぱいで玄関から入れなかったので、屋上に上って屋根に穴をあけて、イエスさまの前につり下ろしました。イエスはこの人の罪をゆるし、病をいやしてくださいました。 10月14日(水) ルカ五27-32  レビとはマタイのことです。みんなから嫌われていた取税人レビをイエスさまはお弟子さんにしてくださいました。お金が大好きだったマタイが神さまを信じる人にされました。 10月15日(木) ルカ五33-39  宗教家たちから見ると、イエスさまのお弟子さんたちはとてもだらしなく、いい加減に見えました。でもイエスさまは、自分の教えは新しいものだから、新しい考え方・新しい生き方をしないとおさまらないと教えられたのでした。 10月16日(金) ルカ六1-11  パリサイ人たちや律法学者たちは安息日にはきまりなんだから何もしてはならないとイエスさまのお弟子さんたちを非難しました。でもイエスさまは安息日に何をするかはもっと大事であることを思い起こさせようとされました。 10月17日(土) ルカ六12-19  イエスさまは徹夜でお祈りして、一二人のお弟子さんを選びました。身分の高い人、勉強の得意な人、性格のよい人というようなことではなくて、神さまの不思議な選びがありました。神さまはあなたのことも選んでくださったのです。  聖書を読んで、神さまのお声を心に聞いたら、聞きっぱなしにしてはいけません。お祈りをしてあなたの思いを神さまに伝えること、そして、神さまに従いますとお答えすることです。自信はないかもしれません。けれども、神さまはあなたに力をくださって、あなたが神さまに喜ばれる生き方ができるように力をくださるのです。そこが御言葉のすごいところです。御言葉は単なるおきてや規則ではありません。聖書にはあなたを神さまの御心の中に生かす力があるからです。 10月18日(日) ルカ六20-26  さいわいだ、というのは祝福されているということです。貧しい人・飢えている人・泣いている人・・・神さまから見捨てられているように見えます。でも、主イエスは、神の祝福の中に置かれているのだと宣言されるのです。 10月19日(月) ルカ六27-38  敵を愛し、憎む者に親切にしなさい。それは神さまが情け深く、あわれみに富んだ方だからです。まず、神さまが私たちをあわれみ、私たちをゆるしてくださったからです。私たちを、その憐れみ深い神さまの子どもとしてくださったからです。 10月20日(火) ルカ六39-45  だれでも、自分の罪や弱さはなかなか見えないものです。そのくせ人の一度はすごく大きく見えるのです。まず自分自身を点検し、神さまに整えていただきましょう。 10月21日(水) ルカ六46-49  神さまの言葉を喜んで聞いていても、聞いてそれでおしまいでは何にもなりません。聞いた神の言葉を行うことによって、私たちの人生にしっかりとした土台を築くことになるのです。それは外からは見えない部分ですが、とても大切なのです。 10月22日(木) ヤコブ一19-21  すぐに怒ったり、人を責めたりするのではなく、人の言葉も、神さまの御言葉もまずよく聞くことが大切です。何よりも神さまの御言葉を素直に受け入れることです。御言葉には私たちを救う力があるからです。 10月23日(金) ヤコブ一22-27  聞くことはとても大切ですが、聞いたとおりに行うことはもっと大切です。鏡を見て何か顔についていることに気づいたら直しますよね。ああ、そうか、神さまはこういうことを願っておられるのかで、終わってはならないのです。 10月24日(土) 使徒二〇32  聖書の言葉は「恵みの言」です。神さまの言葉には力があって、私たちを神さまの喜ばれる姿に造りかえ、天国に住むにふさわしい者にしてくださるのです。御言葉を受け入れ、従おうとする者にいのちと力をくださるのです。  神さまの御言葉は神さまの約束でもあります。私たちの約束はすぐに変わってしまったり、都合が悪くなったりしますが、神さまの約束は変わることがなく、その通りに実現します。神さまが語られると、すべてのものがその通りになります。神さまの言葉には権威があり、力があるからです。神さまの御言葉は私たちを裏切ることはありません。神の御言葉は必ず、その通りに実現するのです。 10月25日(日) ルカ七1-10  百卒長とはローマの軍隊の百人隊長です。この人は部下の一人が病気になった時に、「ただ、お言葉をください」と言いました。たといイエスさまが家まで来て、僕に手を置いてくださらなかったとしても、イエスさまが今ここで「僕は直る」と語ってくださったら、絶対そうなると信じていたのです。信じたとおりのことが起きました。 10月26日(月) イザヤ四〇1-5  イザヤが見ていた現実のイスラエルは悲しい状況でした。人々の心は神さまから離れています。けれども、イザヤはやがて主の栄光があらわれる日が来ると知っていました。それは主が、その口をもってそのように語られたからです。 10月27日(火) イザヤ四〇6-8  青々した草も枯れていきます。きれいな花もしぼみ、散っていきます。目に見えるものは全部変わっていくのです。でも変わらない・確かなものが一つだけあります。それは神の言葉です。 10月28日(水) イザヤ四〇9-11  「よきおとずれ」とは神さまのすばらしい恵みの知らせのことです。それは神の救いの知らせです。神さまの救いの知らせは確実です。どんなことでもおできになる力ある主が私たちを救い、羊飼いのように、やさしく守り、導いてくださるのです。 10月29日(木) イザヤ四〇12-17  神さまは大きな方です。手のひらで海をはかり、指で天をはかられるお方です。すべてを造り、治めておられる偉大な方です。このお方は力と知恵に満ちておられるお方、どんな国も王も民も越えたお方なのです。 10月30日(金) イザヤ四〇18-26  偶像は人が造った偽物の神さまです。本当の神さまはすべての世界も国も人もお造りになったお方なのです。このまことの神さまに比べることのできるものなど何もありません。 10月31日(土) イザヤ四〇27-31  このお方はイスラエルのことをいつも思い、助けてくださるお方です。私たちがどんなに弱くても私たちを見捨てることはありません。私たちが主を待ち望む時に、この力のあるお方が私たちの力を新たにして、わしのように力強い歩みをさせてくださるのです。  皆さんの家族やお友だちが亡くなった経験をした人はいますか。おじちゃんやおばあちゃん、兄弟、お父さんやお母さん、お友だちや知り合いの誰かが死んでしまったという経験をした人はいるでしょうか。きっといると思います。確かに人はいつかは死にます。でも、どんなに分かっていてもっやっぱり寂しいですし、悲しいです。それが突然であればなおさらです。けれどもイエスさまはそんな私たちの悲しみにも寄り添ってくださるお方です。 11月1日(日) ルカ七11-17  自分の夫を亡くし、そして、今、一人息子が死んでしまったこの女の人にイエスさまは近づいて、「泣かないでいなさい」と語りかけられました。これがどうして泣かないでいられるでしょうか。けれどもイエスさまはこの女の人の涙を喜びに変えてくださいました。 11月2日(月) ルカ七18-23  バプテスマのヨハネはイエスさまのことをみんなに救い主だと紹介していました。でも、違ったらどうしようとちょっと不安になりました。イエスさまは旧約聖書に書いてある通りのことが起こっているよとおっしゃいました。 11月3日(火) ルカ七24-35  バプテスマのヨハネは偉大な人物でした。救い主のために道備えをしたからです。でも、あくまでもイエスさまの前の時代の人物でした。イエスさまが来てくださって、新しい時代が始まっていたのです。 11月4日(水) マタイ五4  悲しんでいる人たちはさいわい、とイエスさまはおっしゃいました。なぜなら、深い悲しみを経験した人だけが、神さまの深い慰めをも経験することができるからです。そして神さまの慰めをいただいた人は、今度は悲しんでいる人たちの慰め手として生きるのです。 11月5日(木) イザヤ五三1-5  神であられたのに人になってくださったイエスさまは悲しみの人であり、私たちの悲しみを分かってくださるお方です。そしてまた、私たちの悲しみを負ってくださった方なのです。 11月6日(金) イザヤ六一1-4  イエスさまが来られるよりも何百年も前のイザヤはイエスさまについて預言しました。イエスさまが来られたのは、悲しんでいる人たちを慰め、その悲しみを喜びに変えるためでした。あなたには悲しみがあるでしょうか。イエスさまは喜びに変えてくださいます。 11月7日(土) 黙示録二一1-4  悲しみの最終的な解決はイエスさまの再臨の時にあります。主は私たちの涙をぬぐい去ってくださいます。私たちはもう一度愛する人たちと再会します。天国にはもう死も、悲しみも、痛みもないのです。  みんなは神さまに自分の罪を告白してゆるしていただいたことがありますか。私たちは罪をもったままでは天国に行くことはできません。そして私たちは自分の力で自分の罪をなくしたり、きれいにしたりすることはできません。ただイエスさまだけが、私たちの罪をゆるし、私たちをきよくしてくださるのです。大切なことがあります。私たちが自分の罪を認めて神さまにお詫びし、イエスさまを救い主として信じることです。 11月8日(日) ルカ七36-50  イエスさまがパリサイ人シモンの家にお食事に呼ばれた時に、その町で有名な罪の女がイエスに近づいて涙でイエスの足を洗い、髪の毛でぬぐいました。イエスさまはこの女が自分の罪を悔い、神さまに近づいているのを知っていました。イエスはこの女に「あなたの罪はゆるされた」と言われました。 11月9日(月) ルカ八1-3  イエスさまはいろいろな町々村々を回って神の国の福音を語られました。イエスさまはどの町の人たちにも、どんなに悪魔にしはいされている人であっても、神さまを信じて欲しかったのです。 11月10日(火) ルカ八4-15  四つの種のたとえ話です。種は神の言です。このたとえは、御言をどう聞くかということを問題にしています。聞いた御言葉を心にしっかりと止め、信じて、その御言にとどまり続けることです。すると御言は豊かに実を結ぶのです。 11月11日(水) ルカ八16-18  神さまの御言は私たちを照らす光です。私たちは神さまの御言を聞いたら、それを隠してしまうのではなく、それをみんなに見えるようにかかげ、その御言を信じて歩み続けることです。御言をせっかくいただいても、信じなかったら、分からなくなってしまいます。 11月12日(木) ルカ八19-21  イエスさまのお母さんや兄弟たちは、イエスさまを連れ戻しにきたようです。でも、イエスさまは、神の御言を聞いて行う人こそが私の家族だとおっしゃいました。あなたはイエスさまの家族でしょうか。 11月13日(金) ルカ八22-25  ガリラヤ湖が大嵐になりました。水をかぶって舟が沈みそうです。弟子たちは怖くなってねていたイエスさまを起こします。あなたがたの信仰はどこ?とイエスさまは問われました。イエスさまが一緒なら怖がる必要はなかったのです。 11月14日(土) コロサイ三12-14  私たちは自分が神さまに赦された者であることを忘れてはいけません。誰かを見て腹が立ったり、責めたくなった時も、まずゆるしあうことから始めましょう。私も、神さまにゆるされている者だからです。  悪魔に心をまかせてしまうと、心がすっかり悪魔のものになってしまいます。悪魔に負けないように、小さいことから神さまに従う私たちでありたいと思います。神さまの悲しまれることをしていると、最初は心が痛くなりますが、だんだん悪いことをしても平気になってきます。最初は小さなことでも神さまに従いたいと思っていたのに、だんだんどうでもよくなってしまうのです。私は悪魔に負けてしまっているなあと分かったお友だちは、イエスさまにもう一度心を自由にしていただこうね。 11月15日(日) ルカ八26-39  レギオンとはローマの軍隊の単位で六千人の軍隊のことだと言います。この人の心はすっかり悪魔だらけになってしまっていたのです。でもイエスさまはこの人を助けてくださいました。イエスさまは私たちも救ってくださいます。 11月16日(月) 1ペテロ五8-11  悪魔のいいなりになってはいけません。確かに悪魔は私たちの弱点を知ってしますし、とても強い敵です。でもイエスさまを信頼して、戦わなければなりません。神さまは私たちを強め、悪魔にやられないように助けてくださいます。 11月17日(火) マタイ四1-11  悪魔はイエスさまのことも誘惑しました。イエスさまは私たちが悪魔に攻められる時にどんなに大変かを分かってくださるお方です。けれどもイエスさまは御言葉によって悪魔に勝ってくださいました。 11月18日(水) ヤコブ四7-10  悪魔は私たちを脅すでしょう。私たちをこわがらせるでしょう。でも悪魔にだまされていいなりになってはいけません。神に従って立ち向かうのです。そうすれば悪魔は逃げていきます。いつでも神さまに向き、神さまに近づき続けていることです。 11月19日(木) 1ヨハネ五1-5  イエスさまを信じて生きる人は、悪魔の力に勝つことができます。神の子は悪魔に勝つのです。私たちの中に力があるのではありません。私たちが信じる神さまは強いお方だからです。 11月20日(金) ローマ八31-34  神さまが味方だったら私たちは何も怖がる必要はありません。神は大きな力のあるお方です。イエスさまが私たちを救い、イエスさまが私たちのためにお祈りしていてくださるのですから、私たちは何も心配いらないのです。 11月21日(土) ローマ八35-39  私たちのところにどんなことが起こってきたとしても、神さまの愛から私たちを引き離すことはできませんし、神さまは私たちに勝利を約束していてくださるのです。しかもそれはやっと勝ちましたというようなものではなく、悪の力に余裕で勝つことができるのです。  「信じる」ということは、分かりそうで分からないかもしれません。私も小学生の時に、「信じれば天国に行けるんだよ」と言われても、その「信じる」ということがどんなことかよく分からなかったのです。実は、私たちは意識していなかったとしても、たくさんのことを信じて生きています。お父さんやお母さんを信じ、先生を信じ、学校を信じ、教会を信じています。信じるとは、私たちが信じようとするものが本当だ、頼って大丈夫と、受けとめることなのです。 11月22日(日) ルカ八40-56  ヤイロの大事なひとり娘が病気になりました。せっかくイエスさまに来ていただけることになったのに家から娘が死んだという知らせが届きます。「恐れることはない。ただ信じなさい。娘は助かるのだ」とのイエスの言葉がヤイロを支えました。 11月23日(月) ヨハネ一四1  十字架の前日にイエスが弟子たちに語られた言葉です。心の騒ぐ弟子たちに、イエスは「神を信じ、またわたしを信じなさい」とおっしゃいました。イエスさまが見えない時にも、心配しなくていいのです。イエスは私たちを見捨てることはないからです。 11月24日(火) マタイ九27-31  イエスのところに来た二人の目の見えない人に、イエスは「わたしにそれができると信じるか」と問いかけられました。神に求めながら信じていない時があります。あなたは信じますか? 11月25日(水) 詩篇二七1-6  この詩篇の記者にも敵がおり、また悩みがありました。いのちの危険を感じることもあったでしょう。しかし、この人は主を信じ頼り、神さまのすぐそばにいつもとどまっていたのです。主が守ってくださったのです。 11月26日(木) 詩篇二七7-14  「わたしは信じます」とこの人は言います。誰が自分を見捨てたとしても、主が自分を守り支え、主の恵みを見ることができることを、この人は危険の中にあっても信じ、神さまの前にとどまるのです。 11月27日(金) 詩篇一一六1-19  この一一六篇の記者も危険の中にありました。けれども大きな悩みの中にあってもこの人は、「なお信じた」と言います。主が自分の祈りを聞き、また恵みとあわれみに富んだお方であることを知っていたからです。 11月28日(土) ローマ三21-26  神さまは信じる人に救いを与えてくださいます。それは私たちが何かをしたからではありません。私たちががんばったからでもありません。本当は、罪のために滅んでいくはずの私たちのために主が備えてくださった義を、私たちは恵みによっていただくのです。 今日から教会のこよみではアドベントに入ります。待降節と言って、主イエスが人となって来てくださったクリスマスを待ち望む期間で四回の日曜日を含んでいます。今日はその最初の日曜日です。  みんなの教会でもクリスマスの準備をいろいろしているでしょうね。ぜひ、クリスマスに誘いたい人の名前をあげてお祈りしましょう。日本ではクリスマスの本当の意味を知っている人は少ないのです。一人でも多くのお友だちにイエスさまのことを知って欲しいですね。 11月29日(日) イザヤ六1-5  ウジヤ王はとても力のある王様でした。でもそのウジヤも死んでいきます。イザヤはそのような時に聖なる神さまの前に引き出されます。イザヤは自分の汚れを知らされて、「滅びるばかりだ」と叫ぶのでした。 11月30日(月) イザヤ六6-7  自分は汚れている、滅びるばかりだと神さまの前に知らされたイザヤに神に仕えるセラピムが祭壇の炭をもって来て触れます。イザヤは「あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」との神さまの呼びかけを聞くのでした。 12月1日(火) イザヤ六8  罪をゆるされたイザヤは神さまの呼びかけに「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」と答えます。あなたもイザヤと一緒に神さまにお答えしませんか。 12月2日(水) イザヤ六9-13  イザヤがメッセージ伝えても、イスラエルの人たちは心をかたくなにしてなかなか受け入れようとしない・・・神さまは知っておられました。でも神さまはそんなイスラエルをもあわれみ、残りの民を残し、救い主を送ろうとしておられました。 12月3日(木) イザヤ五七15  神さまはきよく、罪のないお方です。私たちをはるかに越えたお方なのです。けれども、私たちが自分の罪や汚れを素直に認めて、へりくだって神さまに近づく時に、神さまは弱く罪深い私たちの心の中にも住んでくださいます。 12月4日(金) 1テサロニケ五2324  私たちは自分で自分の心をきよくすることはできません。けれども、神さまは私たちをきよくして、イエスさまがもう一度来られる時に、喜んでイエスさまをお迎えできるようにきよい者としてくださるのです。 12月5日(土) 2テモテ二20-21  「きよい」ものとは、神さまのために特別に取り分けられたものと言うことです。神さまのお役に立つものとなるためには、私たちもまた汚れたものから離れる決断をしなければなりません。神さまのとっておきの器となるためです。  アドベントの第二聖日です。イザヤはイエスさまが生まれる七百年前に南ユダ王国で活躍した預言者です。神さまはイザヤにその時代の人々に対して語るようにと、メッセージをあずけられました。イザヤは天地創造から、やがてイエスさまが再臨して、新しい天と地が創造されるところまで、壮大な神さまのメッセージを語ります。その中止はやがて神さまが救い主を送ってくださるというメッセージでした。 12月6日(日) イザヤ七1-9  スリヤの王レジンと北イスラエルの王ペカは南ユダ王国に同盟に入るように求めます。イザヤは南ユダ王国のアハズ王に、どんなに脅されたとしても、神さまだけに信頼して、恐れることのないようにと、神さまの言葉を伝えます。王様にとって何より大事なのは神さまを信じることだったのです。 12月7日(月) イザヤ七10-17  アハズは国がピンチの中で神さまに信頼するのではなく、スリヤのもっと向こうにある大きなアッスリヤの国に助けてもらうことを決めていました。けれども神さまはやがて一人のおとめから救い主が生まれるという約束をくださったのでした。 12月8日(火) ルカ一5-25  イエスさまがお生まれになる一年半ほど前、天使ガマリエルが年老いた祭司ザカリヤのところに来て、赤ちゃんが与えられることを伝えます。でもザカリヤにはとても信じられませんでした。でも神さまの御言葉の通りになりました。 12月9日(水) ルカ一26-38  天使ガマリエルはマリヤのところにやって来て、マリヤが救い主のお母さんになることを告げます。マリヤは神さまの御言葉の通りになるようにと、自分を神さまにおゆだねしたのでした。 12月10日(木) ルカ一39-45  マリヤはエリサベツのところを訪ねます。エリサベツは、主がお語りになったことを、そのまま信じ受け入れたマリヤを心から祝福します。エリサベツにはマリヤが救い主のお母さんになることが分かったのです。 12月11日(金) ルカ一46-56  マリヤは心から神さまを賛美します。不安がないと言ったら嘘になるでしょう。けれども、自分を神さまにゆだね、神さまが約束されたことをついに実現してくださること、そして、その実現に自分が関係できることを心から喜んだのでした。 12月12日(土) マタイ一18-24  マリヤに赤ちゃんができたということは婚約者ヨセフには大きなショックでした。でも主の使いがヨセフに何が起こっているのかを説明した時、ヨセフもまた神がしておられることを受け入れました。  アドベントの第三聖日です。いよいよ来週はクリスマスですね。準備は進んでいますか?毎日聖書を少しずつ読みながら、神さまがクリスマスにしてくださったことを心の中で思い巡らし、クリスマスを待ち望む時をぜひ持ってほしいと思います。神さまの救い主を送るというご計画は人間が罪を犯してからずっと神さまのもっておられたものでした。神さまの約束を聞いたイスラエルの人たちも何百年も何千年もこの約束の成就を待っていたのです。 12月13日(日) イザヤ九1-7  暗闇の中を歩んでいた人たちのためにすばらしい光として救い主が来てくださいました。この赤ちゃんは、すばらしい相談役、力のある神さま、いつまでも変わらない父、平和をもたらしてくださる王様です。熱心な神さまがこの救い主を送ってくださるのです。 12月14日(月) イザヤ一二1-6  イザヤは心から神さまを賛美します。イザヤはイスラエルの罪のために神さまがどんなに怒っておられるかも知っていました。けれども、神さまはなおもあわれんで救ってくださるということを知ったからです。 12月15日(火) ミカ五1  ミカはイザヤと同じ時代に活躍した預言者です。ミカは救い主が生まれるのは王宮のあったエルサレムではなく、小さなベツレヘムの村であることを預言しました。このベツレヘムはダビデの生まれた村でもありました。 12月16日(水) ルカ二1-7  ヨセフとマリヤはガリラヤ地方のナザレの人でした。けれども、神さまの不思議な導きの中で二人はベツレヘムに着き、そこでイエスさまは生まれます。イエスさまのいるところはなくて、飼葉おけに寝かされたのでした。 12月17日(木) ルカ二8-14  イエスさまがお生まれになった最初のクリスマスの夜、御使いは身分の低い羊飼いたちに現れて救い主の誕生を知らせます。これはすべての人に与えられる大きな喜びのしらせでした。空いっぱいに天使たちが現れて、心から神さまを賛美しました。 12月18日(金) ルカ二15-21  羊飼いたちは御使いが教えてくれたようにベツレヘムに行って、飼葉おけにねている赤ちゃんを捜します。そして、本当に赤ちゃんのイエスさまを見つけたのです。この日、救い主を拝んだのは羊飼いたちだけでした。 12月19日(土) イザヤ六〇1-7  救い主は本当にベツレヘムに生まれてくださいました。このお方はその栄光をもって私たちを照らしてくださいました。イエスさまは今も、私たちの心を明るく照らしてくださいます。  今日はアドベントの第四聖日です。今週はいよいよクリスマスを迎えます。クリスマスにはろうそくがつきものです。これはイエスさまが光としてこの世に来てくださったということがあるからです。あの羊飼いたちが御使いの賛美を聞いたのも夜でしたし、博士たちがある意味途方に暮れて、ベツレヘムに向かった時、空を見上げて東方で見た星を見て喜びに満たされたのも夜でした。イエスさまの顔に後光が差していたというわけではなかったでしょう。でもイエスさまに会った人たちの心は不思議に変えられていったのです。 12月20日(日) ヨハネ一1-5  ここで「言」「光」と呼ばれているのはイエスさまのことです。どんなに深い暗闇でも光があるところを支配することはできません。光が来る時に闇は追い出されていくのです。 12月21日(月) ヨハネ一6-8  バプテスマのヨハネは光ではなく、光について証しするために来ました。救い主が来られるから準備して心から救い主を迎えるようにとみんなに呼びかけたのです。私たちも光として来てくださったイエスさまをみんなに紹介したいと思います。 12月22日(火) ヨハネ一9-13  イエスさまはすべての人を照らすまことの光です。イエスさまがこの世に来てくださった時、多くの人たちはイエスさまを迎えようとはしませんでした。しかし、このお方を信じる人は神の子にされるのです。 12月23日(水) ヨハネ一14-18  イエスさまは人となってこの世に来てくださいました。そして、神さまがどのようなお方であるかを、私たちに分かるように示してくださったのです。このお方はめぐみとめことに満ちておられました。 12月24日(木) マタイ二1-6  イエスさまがお生まれになった時、東の国の博士たちが世界に光をもたらすユダヤ人の王様を拝むためにやってきました。けれども、この王様は、聖書の約束の通り、エルサレムではなくベツレヘムに生まれたのでした。 12月25日(金) マタイ二7-12  博士たちは星に導かれて、ベツレヘムにおられたイエスさまにお会いします。博士たちはどんなにうれしかったことでしょうか。そして赤ちゃんのイエスさまを心から礼拝し、自分たちの宝物をささげたのでした。 12月26日(土) マタイ二13-15  博士たちが帰ってから、主の使いはヨセフにエジプトに逃れるようにと告げます。ヨセフはその夜のうちに、エジプトに逃れました。確かにヘロデ王は残虐で、赤ちゃんは無力でした。けれども神さまはその幼な子を守られました。  今年も皆さんが教会学校に励んで来てくださったことを本当にうれしく思います。それから、皆さんが聖書を読み続けてくださったことも心からうれしく思います。この一年、みなさんにはどんなことがあったでしょうか。一年の終わりに神さまに心から感謝し、祈りをもって新しい年を迎えたいと思います。 12月27日(日) ヨハネ一19-28  バプテスマのヨハネが人々に、もうすぐ救い主が来られるから準備をするようにと語り、集まってきた多くの人たちにヨルダン川で悔い改めのバプテスマを授けていた時、うわさを聞いたエルサレムの宗教家たちはヨハネのところに人を送ります。ヨハネははっきりと自分は救い主キリストではないと言います。人々に救い主を指し示す「声」だ。声はメッセージを伝えたらやがて消えていきます。 12月28日(月) ヨハネ一29-34  ヨハネはイエスさまを見た時に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言います。旧約聖書の時代、人々は罪のあがないのために小羊をささげました。イエスさまは同じように、私たちの身代わりに死に、私たちに罪のゆるしをもたらすために来てくださったのです。 12月29日(火) ヨハネ一35-42  バプテスマのヨハネには弟子たちがいました。その一人はアンデレでした。アンデレはヨハネの言葉を聞いてイエスさまについて行きます。アンデレは今度は自分のお兄さんのペテロにイエスさまのことを教えたのでした。 12月30日(水) ヨハネ一43-51  イエスさまはピリポに声をかけ、ピリポはナタナエルにイエスさまのことを伝えました。ピリポもナタナエルもイエスさまを信じました。あなたは誰にイエスさまを紹介しますか? 12月31日(木) 詩篇一〇三1-22  神さまはみなさんにこの一年どのような恵みを注いでくださったでしょうか。神さまのすべての恵み、神さまがこの一年、みなさんによくしてくださったことをもう一度振り返って心から感謝しましょう。 1月1日(金) 哀歌三22-23  神さまのあわれみ、いつくしみは絶えることはありません。神さまの真実は大きく、また朝ごとに新しい恵みをもって私たちを満たしてくださる方です。この新しい年も、去年の恵みではなく、新しい恵みを毎日新たにくださる神さまを信じていきましょう。 1月2日(土) ゼパニヤ三16-17  神さまは私たちのうちに住んでいてくださいます。このお方は力強い勇士であって、私たちに勝利を与え、私たちをいつも愛していてくださるお方です。私たちはこの新しい年もこの方に愛されて力強い歩みをするのです。