「聖書の光」第一四五号で、六月十一日「感謝することを忘れずに」(ルカによる福音書一七・11〜19)の「テキスト研究」と「子ども説教」の中に不適切な内容があったため、日本ホーリネス教団教育部では取り扱い書店や教会を通じて発行後に問題の箇所を修正、もしくは削除した差し替えページを配布しました。パンフレット
「『らい病』と私たち」を発行した福音による和解委員会から、その箇所の何が、どうして問題なのか、どのような注意を払うべきなのかについて説明します。特に問題となり削除された箇所は、「子ども説教」の【実例】冒頭の次の行です。
聖書の中には、重い皮膚病になった人がでてきます。目が見えなくなったり、体の一部が白くなったり、形が変わったりする病気です。
医学の十分な知識がなかった時代、重い皮膚病の人は差別され、つらい目にあいました。
この箇所には事実の誤認と、誤解を招きかねない不十分な記述があります。
問題1、病状の誤認
ここに挙げられた病状のリストのうち、「目が見えなくなる」「形が変わる」などはハンセン病に特有の症状を想起させるものです。これは聖書中の「重い皮膚病」を「ハンセン病」と混同しているために生じた誤りであるといえます。
ここで「重い皮膚病」と書かれている言葉は、以前の日本語聖書では「らい病」と訳されていました。日本では明治時代以来の偏見を温存した差別的な法律が「らい予防法」として戦後も存続したため、かつて「らい病」と呼ばれていたハンセン病患者や元患者の方々が、感染の恐れがないのに自分の意思とは無関係に長期間療養所に収容され、隔離されるなど不当な扱いを受けてきました。政府がその政策の誤りを認め「らい予防法」が廃止されたのは一九九六年のことですから、まだ記憶に新しい出来事です。
さて、私たちクリスチャン、とりわけ聖書のメッセージを伝える説教者や教会学校教師にとって問題となるのは、聖書に「らい病」「らい病人」という言葉が使われていたために、それが現代の日本社会で「らい病」と呼ばれてきたハンセン病と同一のものであると混同され解釈されてきたことです。一九七〇年代から九〇年代にかけて、医学と神学(聖書言語)の両方に通じた国内外の研究者らによってこの分野の研究が進み、両者が同一の病気とは言えないことが解明されてきました。参考文献として犀川一夫著『聖書のらい その考古学・医学・神学的解明』(新教出版社)をぜひお読みください。
九〇年代以降、聖書とりわけ旧約聖書に出てくる「らい病(へブル語「ツァラアト」)は、その症状の特徴や、衣服や壁にも使われる言葉であることなどから見て、現代の「ハンセン病」とは違うものであることが知られるようになり、今日ではそれがほぼ定説となりました。新約聖書中の「らい病(ギリシャ語「レプラ」)については症状の記載がないために旧約ほどはっきりしないものの、どのような病気であるかを特定することはできないとの見方が一般的になっています。
今日では、旧約のツァラアトや新約のレプラは、翻訳が非常に困難な(不可能と言い切る学者もいる)語とされています。そうした中で、旧来の「らい病」という表記を聖書にそのままにしておくことは、ハンセン病患者・元患者への差別や偏見を助長しかねないとの懸念が高まり、ハンセン病療養所内の教会から強い要請などもあって、日本聖書協会は一九八七年、まず新共同訳の旧約で使われていた「らい病」ということばを暫定的に、人に関する文脈では「重い皮膚病」に、壁や衣服など物に関する文脈では「かび」に言い換え、新約でも一九九七年に「らい病」を「重い皮膚病」に言い換えた新版を発行しました。追って口語訳も二〇〇二年、同様の改訂を実施しました。
しかし「重い」皮膚病としたことで、依然として「ハンセン病」を想起させてしまうという批判が今もあります。また最近は重症のアトピーの子などが、「重い皮膚病」という表現で自分のことを言われているように思い傷ついてしまう恐れがあることにも配慮が必要です。
一方新改訳は二〇〇三年、旧約の「ツァラアト」も新約の「レプラ」もカタカナ表記で「ツァラアト」とする改訂第三版を発行しました。その表記決定の理由や経緯は『聖書翻訳を考える「新改訳聖書」第三版の出版に際して』(いのちのことば社)や日本聖書刊行会のホームページで知ることができます。聖書中の「らい病」という訳語が「ハンセン病」と誤認されやすいので改善が必要だという認識は日本聖書協会と共通なのですが、新改訳聖書刊行会は、原語の翻訳ではない「重い皮膚病」のような差別回避のための言い換えをよしとせず、年月をかけて検討を続けてきたのでした。
いずれにしても、こうした聖書の改訂の背後には、日本におけるハンセン病患者・元患者たちが、社会的な差別・偏見に加え、聖書の記述が誤認されてきたことにより苦しみを味わってきたという事実があるのです。
問題2、病名の混同は
メッセージを誤らせる
それでは聖書中の「重い皮膚病」を「ハンセン病」と誤認することによって、具体的にどんな問題が生じるのでしょうか。幸い今回のテキスト(ルカによる福音書一七・11〜19)では焦点が、病気を癒された後で感謝するために主イエスのもとに来るか否かにあったので、その病気の名前や症状が何かということが直接メッセージの中身を大きく左右してしまうといったことからは免れました。
しかし、メッセージを語る者が聖書記事中の病名や症状を誤認したり不正確な認識のままだと、気がつかないうちに思いがけないところで聞き手に誤ったイメージを与えることになりかねません。これは、差別を受けてきた病気の患者・元患者への配慮が必要という問題だけでなく、聖書が本来伝えようとしているメッセージを踏み外したり歪めたりすることにもなるので重大なのです。
例えば今回のテキストで一例を挙げると、十人の重い皮膚病の人がイエスに出会ったとき、「遠くの方で立ちどまり、声を張りあげて」イエスさまにあわれみを求めたという記述があります(ルカ一七・12、13)。メッセージを語る者がこの状況を補足的に説明しようとして、重い皮膚病の人たちがなぜ遠く離れて叫んだのかに触れるとします。この時もし、この「重い皮膚病」は「ハンセン病」のことだとメッセンジャーが思い込んでいたとすると、どういうことが起こるでしょうか。「この病気はさわると(あるいは近づくと)うつる恐ろしい病気なので、この病気になった人は人々から離れて『汚れた者、汚れた者』と叫びながら歩かなければなりませんでした」(レビ記一三章にある規定などを参照)と解説するかもしれません。
この解説には二重の意味で、思い込みと不正確な知識ゆえの誤りが混入する危険性があります。
第一に、この病気は「さわると(あるいは近づくと)うつる恐ろしい病気」という思い込みです。前述したように、旧約のツァラアト、新約のレプラがどのような種類の病気であったかは特定できません。どの程度の伝染性があったかについても、聖書の記述からははっきりしないのです。ここでもし、メッセージを語る者がこの病気をハンセン病だと思い込んでいると、ハンセン病について自分が持っている知識を動員して補おうとすることになります。ハンセン病は感染性の非常に弱い病気であることが今日では分かっていますが、以前は「さわるとうつる恐ろしい病気」と思われていました。ハンセン病についてそのような誤った知識に基づき、かつ聖書の「重い皮膚病」がハンセン病だと思い込んでいると、この聖書箇所を語るにあたり「さわるとうつる恐ろしい病気」を前提に脚色して話を組み立ててしまう可能性があります。
また、ハンセン病が実際には感染性の低い病気であることを知っていたとしても、別の問題を生じます。例えば「この病気は現在ではあまりうつらないことが分かっていますが、当時は医学が発達していなかったのでそれが分からず、さわるとうつる恐ろしい病気だと思われていました」などと解説してしまうことによって、聖書の「重い皮膚病」がやはりハンセン病のことだという印象を聞き手に植え付けてしまうことになるのです。
冒頭で「不十分な記述」と指摘したのはこのことです。
「医学の十分な知識がなかった時代、重い皮膚病の人は差別され、つらい目にあいました」という表現は、この「時代」が聖書の時代のことだとも、「らい予防法」が施行されていた近現代のことを指しているとも取れるあいまいな言い回しであるだけに、誤解を生む恐れがあります。
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聖書が明確に述べていないことを、自分の持っている限られた知識や当然こうだろうと思い込んでいるイメージで補足することは、聖書の伝えようとするメッセージを誤る危険を伴うことを銘記しなければなりません。古来、聖書解釈の王道として、聖書が明確に語っていることは明確に語り、聖書が沈黙していることは沈黙する(想像で読み込み過ぎない)ということが言われてきました。そうした先人の知恵に倣うことが肝要でしょう。