子どもにどうきよめを説くか
−子ども聖会の勧め−
錦織 寛

 

 確かに多くの教会においては教会学校の出席人数が減り、教会学校の存続自体が危ぶまれているかも知れません。ただ、そのような中で教会学校に続けて来ている子どもたちはとても大切な子どもたちです。そして教会学校に通っている子どもたちの中にはクリスチャンホームの子どもたちも多く、すでに以前に信仰告白をしてイエス様を信じている子どもたち、また洗礼を受けている子どもたちもいることでしょう。
 教会学校が盛んになっていくために、様々な方法論を学び、試みることはとても大切なことです。伝えるメッセージの本質は変わってはいけません。けれども、具体的なやり方においては、自分の今まで慣れ親しんできた方法を変えていこうという努力を私たちはし続けなければなりません。
 ただ危機的な状況の中にある教会学校の再生のためには、教会に今来ていない子どもたちに働きかけると共に、それ以上に一人でも二人でも現在教会に来ている子どもたちを大切にし、彼らを育てていくことが肝要です。よく羊飼いには羊は集められない。それをするのは羊自身であると言われます。子どもの伝道においても同じことが言えます。今、教会に来ている子どもたちが、教会が楽しくなかったら、いやいやながら仕方なく来ているだけだとしたら、どうして自分の友達を教会学校に誘ってくるでしょうか。
 子どもたちに魅力的な教会学校を建て上げていかなければなりません。プログラムをどう持つかとか、どれだけ景品を出すかということではありません。それも大切ですが、魅力ある福音を魅力あるものとして伝えていく努力を怠らないことです。
 もう一つは今いる子どもたちの霊的な成熟のために最大限の努力をしていくことです。親に言われていやいやながら来ていた子どもたちが、やがて信仰を持つ。その信仰が育っていって、喜んで教会に来て、また奉仕するようになり、やがては友達にも積極的に伝道するようになる・・・そんな霊的な成長を励ましていくと言うことです。その人が信仰を持つまでは滅びないためにと一生懸命働きかけますが、信仰をもつと、「これで少なくとも滅びることはないから・・・」と安心しきって放っておかれるという大人の伝道において起こっていることが、子どもにおいても起こりうるのです。
 そして子どもの信仰の成熟と言うことについて非常に大切で、また大きな可能性を秘めているのが、子どもの「きよめ(聖化の恵み)」であり、そのための「聖会」なのです。この小論においては子どもの「きよめ」の可能性について論じ、子どもにきよめを伝える時の方法や注意点についても合わせて述べていきたいと願っています。



きよめ(聖化)とは?
 きよめとは何でしょうか。「きよめ(聖化)」に関しては、その神学的な立場によって様々な見解があります。きよめを単にキリスト者としての成熟の過程と見るとらえ方をする人々がいる一方、きよめを罪から離れて神のものとして生きるための一回的・転機的な経験としてとらえる人々がいます。これらは両極端とも言えます。きよめが単に成熟の過程だとすれば、それは私たちの自覚的な経験と言うよりも自然な成長のプロセスとしてとらえられることになります。それはちょうど子どもたちが昨日よりも今日の方が背が伸びたなあと認識していなかったとしても、一年という時を隔てて比べる時に確かに成長しているというのに似ています。確かに信仰の成長にはそのような側面があります。毎日、聖書を読んでいても、日々の信仰の成長を自覚することはないかもしれません。けれども、一年たつときに、聖書を読む人と読まない人の差は歴然としてくるものです。ただきよめを成長のプロセスとだけとると、人間の決断とか責任ということはうやむやにされがちです。
 きよめを一回的・転機的な経験とだけとらえると、きよめを経験した人はいわば一つグレードが上の恵みの経験をしたのだという誇りを持ち、そこに安住し、また、自分と同じ経験をしていない他者を裁いたり、見下げたりする危険性が生じてきます。
 「きよめ」とは、すでに救われているキリスト者に与えられる神の恵みの御業であり、私たちの自覚的な応答を伴う転機的な経験です。それは、継続的な神との交わりによって、神に似たものとされていくプロセスによって深化され、やがてキリストの再臨によって完成するものなのです。


全人的なきよめ理解の必要性
 きよめについてもう一つ注意しておきたいことがあります。きよめが非常に狭く、個人の内心の問題としてだけとらえられてはならないということです。「きよめ」は単にその人の心情の問題ではなく、その人の全存在に及び、ひいては全世界に及ぶべきものであると言うことです。単に神学的にそのことを理解し、納得したと言うことではなく、神を中心に置くことによって、新しい世界観(認識)が与えられ、価値観が身に付いて新しい価値観に基づいて判断・選択をするようになり、その人の生き方全体が変えられていくことです。そのきよめは単に個人の内にとどまらず、教会に浸透し、この世に影響を与えていきます。
 その意味では転機的な聖化の経験はキリスト者の歩みに大きな変化をもたらすものですが、同時にそのような恵みの経験をしたからといって私たちが完成してしまうわけではありません。きよめは深まり、高まり、広がっていくべきものだからです。



子どもはきよめられるのか?
 それでは端的にお尋ねしましょう。子どもはきよめられるでしょうか。子どもも聖化の恵みを求めるべきでしょうか。子どもにも聖化を語るべきでしょうか。お答えしましょう。子どもはきよめられます。子どもにも聖化の恵みを語るべきです。
 きよめがすばらしい神のの御業、神に与えられる恵みであり、またキリスト者の求めるべきものであるとすれば、私たちは「きよめは大人になってからね」と子どもにその道を閉ざすべきではないでしょう。もちろんすべての子どもたちがきよめに対して準備ができ、それを求める思いが与えられているかというとそれは違うでしょう。けれども、救いを経験してキリスト者としての歩みを始める時に、子どもであってもパウロと同じように、救われて神の子とされたという自己認識と、現実の中で失敗したり罪を犯し続ける自分とのギャップに悩むことがあるのです。
 私自身もホーリネス教団の牧師の子として育ち、小学三年の時に信仰を持ちましたが、救われて義とされたという自分と、現実の自分とのギャップに悩み、そう言う時には、「救われて義とされた」という事実を疑い、混乱の中で、新生の経験をくり返すという時期が続きました。また小学生のころから聖会に出席する中で、自分にも語られている聖化が必要であると認め、それを求めて、すでに小学六年生の時の日記には、聖会に出た後で、「僕はきよめられた」と記しています。ただ、私は聖化の恵みが何であるかを理解できず、変わらない現実の自分の姿に悶々とすることが続きました。ここで言いたいことはこういうことです。子どもであっても、きよめをはっきりと語らなければならない時があるということです。



子どもの発達ときよめの関わり
 次に発達心理学の視点から子どもに聖化の経験が可能だろうか、そのことを語ることはかえって子どもを混乱の中に追い込むことにならないだろうか(大人でも混乱していることが多いのに・・・)ということについて考えたいと思います。
(1)子どもの罪理解の問題
 子どもは具体的な個々の犯した罪だけではなく、聖化においてよく問題とされる人間の罪の傾向性や罪深さということが理解でできるでしょうか。道徳性の発達と言うことを研究したコールバーグ(Kohlberg, L)は道徳性(善悪の判断基準)の発達を三段階に分けました(図1)。第一段階は権威者の発言に従い、賞罰によって判断が変わってくる段階。第二段階では結果ではなく、自分の内に他者や社会の規範を知って、それに従いたいという動機が生まれてきます。そして第三段階ではより高い普遍的価値に従っていく段階です。きよめということが単に外面的な結果だけではなく、動機をも問うものであるとすれば、きよめが把握できるためには、少なくても子どもたちは慣習的水準に達していることが望ましいと言えます。年齢から言うと、個人差はありますが、十歳位以上からと言うことになるでしょう。
(2)子どもの十字架理解の問題
 子どもがをどのように物事を知り、理解するかということを研究したピアジェ(Piaget, J)の認知発達理論によれば、子どもたちが抽象概念について理解できるようになっていくのは十二歳以上、形式的操作期以降です(図2)。洗礼を授けるのは中学生以降とする教会が多くあるのは、一面では合理的なことでもあります。十字架のあがないだとか信仰を理解するためには抽象的な概念もある程度必要だからです。であるとするば、たとえばガラテヤ二20やローマ六章から自我・古き人が十字架につけられて死ぬということから、自らのきよめを神の御業として理解するためには思春期以降である必要があるかもしれません。
(3)抽象的な概念と具体的な歩み
 そうだとしたら、いわゆる小学生、子どもは能力的・発達論的にきよめを理解できないのでしょうか。子どもにきよめを語ることは無駄なのでしょうか。けれどもここで、私たちは発想を転換しなければならないでしょう。今までの聖会で語られるようなきよめのメッセージを理解するためには少なくとも小学校高学年、おそらくは中高生になっていることが必要かも知れません。逆に言うと、今までとは違った言葉・違った伝え方が必要なのではないかということです。抽象的な記号としてではなく、もっと具体的に「きよめ」を伝えることができる、いや、しなければならないのではないかということなのです。言葉をもって伝えるだけではなく、体を使って、見える形で「きよめ」を伝えなければ子どもにはきよめが分からない。もちろん、子どもの成長に合わせて彼らは自分の経験を表す言葉を獲得し、自分の経験を整理していくでしょう。けれども最初はより具体的な生き方できよめは何であるかを語り、きよめに対する求めを子どもの内に起こさせることが大切なのではないでしょうか。そしてこれは大人の会衆にとっても重要なことなのです。



子ども聖会の勧め
 旧約聖書の時代には、年に7回、諸祭日に「聖会」(聖なる会合、きよめの集会)がもたれました。また、毎週めぐってくる安息日も「聖会」と呼ばれ、人々は聖なる神を覚え、礼拝をささげました。現代の私たちの教会・教団でもたれるきよめを求める集会と同じだったとは思いません。ただ、イスラエルの人々が毎週、また毎年、自分たちを創造し、救い出された主の恵みを思い出すたびに、聖なる神を見上げ、その前に生かされている自分を意識したことは、私たちにとって、とても示唆に富んだことです。ただ、後に、この聖会は形式化し、預言者たちの非難するところとなります(イザヤ一13、アモス五2)。
 子どもたちが小さい内からこの聖なる神の臨在の前に出て、単に高く、優れたお方であるばかりではなく、へりくだる者の内に住んでくださる主を知ることはとても大切なことです。大人の聖会にチャンスがあれば出席するのもすばらしいことですが、同時に子どもの分かる言葉で、子どものために聖会をもつことができればどんなにすばらしいでしょうか。
 そのような子ども向けの聖会があれば、子どもたちに悔い改め・献身・信仰を促して、転機としてのきよめを握らせると共に、定期的に信仰のチェックアップをさせることができます。
 具体的にはキャンプや夏季学校などのプログラムの中に信仰の勧めだけではなく、すでに信仰をもって歩んでいる子どもたちのための聖会的な要素をとりいれることができればと思います。いずれにしても、子どもたちも時間をとって神様の前に出ることができ、教師たちもゆっくりフォローアップできるような時を備えることが大切です。
 新しい子どもたちを教会に招く試みがいろいろされています。けれども、同時にすでに救われている子どもたちだけのためのプログラムもまた必要とされています。同じイエス様を信じ、従う者たちとして、真正面から子どもたちに向き合う教師、そしてそのようなプログラム・取り組みが求められています。



子どもにきよめをどう語るか
 子どもにきよめを語ろうとする時に説教者だけにその責任を負わせることはできません。すでに触れてきたように、子どもに(実は大人もそうなのですが)抽象的な言葉だけで聖化の恵みを伝え、理解させることはできないからです。子ども聖会の提案をしました。けれども一つの集会だけを切り出して行ってもおそらくかえって子どもたちの内に混乱を招くだけでしょう。一つの集会として「聖会」を持つ前に多くの備えが必要ですし、その集会の後のフォローアップを充実させ、きよめられた存在として生きていけるように、子どもたちを支える覚悟を教会が決めなければなりません。
(1)聖なる神の前に立つ・・・「きよめ」を語る前にまず神が聖なるお方であることを子どもたちに伝えることが大切です。まず教師たちが神を恐れる者として子どもたちの前に自らを表すのです。様々な教会での実践例をもとにゲームや子どもの興味を引く様々なプログラムを取り入れる教会も増えています。ただ、子どもたちが多く集まる教会の児童伝道の鍵はゲームではありません。そこには必ず神に対する真摯な恐れがあります。ゲームは子どもたちとのコミュニケーションのための一つの手段です。ゲームを通して多くのことを子どもに教えることができます。けれども、何よりも神を恐れることを、言葉ではなく、教会のあり方・教師の姿を通して教えてください。
(2)私の罪深さ・・・子どもたちは大人よりもずっと自分の姿に正直です。何が罪かということを丁寧に教えましょう。思春期になり、また大人になってくると、聖書の罪の基準を示しても、「それはそれとして分かるけれど、私はそうは生きられない、生きたくない」と開き直ることを覚えていきます。いろいろな罪を経験させ失敗させて、その中で学ばせるという考え方には、罪の恐ろしさに対する甘さがあります。確かに神の恵みの大きさに子どもたちをゆだねていくのですが、それは子どもたちに好き放題させるということではありません。心が麻痺して、罪を犯しても何も感じなくなる前に、心に痛みを感じている内に、きちんと罪の恐ろしさを教えたいと思います。
 そしてまた小学生高学年になってくると個々の罪を一つのとっかかりとしながらも、その罪を産み出していく自分の内の罪深さが理解できるようになります。罪悪感を植え付けて、「あとは自分で何とかしなさい」と放り出すのではなく、そのような自分の罪深さに悩む時代にぜひ、恵みとしてのきよめを握らせていただきたいと思います。
(3)愛なる神の前に立つ・・・罪深さを教えて終わってはいけません。そんな罪人の私をもそのまま愛し、自らが罪を負って私たちをあがない、きよめてくださった神の愛を語ってください。大切なことは「神のものとされている私」に気づかせることです。きよめとは「あなたはわたしのものだ」とおっしゃる神の言を受け入れて「そうです。わたしはあなたのものです」と応答することでもあるからです。その意味でも、いろいろな子どもがいて、中にはあなたの苦手なタイプ、またあなたの忍耐力の限界にチャレンジしてくるような子どもたちもいるかもしれません。神様に愛をいただいて、心から子どもたちを愛して下さい。言葉とあなたの生き方で神様の愛を子どもたちに伝えてください。
(4)献身・・・子どもたちは喜んで神様のお手伝いがしたいと願っています。「あなたはまだ小さいから」と言わないで、子どもの内から神様のために何かをする喜びを教えてください。子どもたちが「自分は牧師になりたい」「献身したい」と口にする時に、どうぞ「あなたには無理だ」と否定したり、「勉強ができないと牧師にはなれないよ」と高いハードルを設定して子どもをくささないでください。牧師や宣教師になるだけが献身ではありませんが、多くの牧師や宣教師が小学生の時代から献身の思いが与えられていたこともまた事実です。神様は子どもの献身を喜んでくださいます。将来のことばかりではありません。今、子どもとして、神様に従っていこうという喜びにあふれた決断をぜひさせてあげたいと思います。
(5)信じると言うこと・・・小さい時から教会に通っている子どもたちは、教会で語られることを疑うことがありません。もちろん子どもたちが成長するにつれて、この世の教えることとのギャップに悩んだり、疑うことを学ぶこともあるでしょう。けれども、小さいうちに信仰をしっかり植え付けられた子どもたちはたとい悩んだり疑ったりしても、そこを乗り越えて、さらに深い、容易に揺るがされることのない信仰をもっていくようになります。子どものうちは教会の先生の語る言葉は絶対ですから、子どもの信用を失わないようにくれぐれも気をつけたいものです。そして、しっかりと御言に立った信仰を持たせ、「この御言があるから、大丈夫だよ」と神の御業に対する信頼を堅くしていきましょう。
E神に似た者として作られ続けていくと言うこと・・・聖化の恵みの経験を分かりにくくしている原因の一つはきよめをゴールと考えることから来ます。きよめられたと思っていても、後で自分の生活の中で考えると、これで本当にきよめられたのだろうかと不安になってくるのです。きよめられた人はきよめを誇ることはしません。ますますきよきを求め、自らは謙虚になって、きよめてくださる神を誇るのです。子どもにとってもきよめは大きな転機です。けれども、大人はもちろんのこと、成熟への過程をたどっている子どもたちはなおさら、心と体の成長に伴って、信仰の歩みを成熟させていきます。きよめられてよかったねで終わらずに、その信仰の歩みを励まし、どのようにきよめの歩みを続けていったらよいのか、助けましょう。きよめられてからがまた大切なのです。



終わりに−−−チャンスをとらえて
 「子ども聖会を」という提言をさせていただきました。けれども、子どもたちにきよめを勧めるのは、必ずしも「賛美・聖書・説教・招き・フォローアップ」という形式をとった集会でとは限りません。子どもたちと一緒に奉仕をする中で、または毎週の日曜日の子どもたちとの関わりの中で、子どもたちにきよめの恵みを語り、何よりも見せていっていただきたいと思います。一人一人の子どもたちに、一番良い時があります。子どもをきよめに向かって備えさせる、きよめを求める子どもを育てることが大切です。それは罪に対して神経質な子どもたちをということではありません。私たちを愛して下さっている神の御旨に対して敏感な者を育てると言うことです。
 子どもたちが自分の経験を抽象的な言葉を使って言語化・説明できるということは後でもいいと思います。それも子どもたちの発達と共に欠かしてはならないものですが、特に子どもたちの場合、具体的な歩みの中できよめを求め、体験させていくと言うことが大切です。そのためにも、まず神の前にあって聖化の恵みの中に生きている教師自らの姿を見せていくことから始めましょう。私たちはその意味でも大きな責任と特権を与えられているのです。


(錦織 寛・にしこおり ひろし・日本ホーリネス教団教育局局員・日本ホーリネス教団東京中央教会牧師・教会学校研究会・聖書の光編集委員・東京聖書学院助教授)

 


134号から