1. いったい、どういうことが現実に起きているのか

  1. 苦境に立たされるキリスト者教員

  1. 国立市の例

 東京・国立市立第二小学校で音楽専科を担当していたキリスト者の教員・佐藤美和子さんのケースを紹介します。国立市ではかつて生徒や保護者・教職員らが工夫を凝らした個性的な卒業式が行われていましたが、一九九九年に「国旗・国歌法」が制定されて以来、急速に統制が強まりました。二〇〇〇年一二月に校長あての職務命令が出され、翌年の卒業式では市内全校の校長が「日の丸・君が代」完全実施の方針を打ち出しました。その際、校長らは音楽専科によるピアノ伴奏にこだわりを示しました。
 これに対し佐藤さんはキリスト者として、信仰上の理由などを挙げて「君が代」の伴奏をしたくない旨を校長に申し出ました。その理由とは、自分の考え方の核をなすものが唯一絶対の神以外の何ものをも崇拝しないというキリスト教の考え・信仰にあることでした。佐藤さんは「かつて天皇を神とする考えに基づき礼賛にも用いられた『君が代』の演奏をすることは、信仰上の強い抵抗があり、私にとって内心の自由・信教の自由を著しく侵される事柄です」などと説明して、他の方法に切り替えるよう願い出たのです。
 しかし当時の校長は、佐藤さんの言い分を聞こうとはしませんでした。この事情を知った全国のキリスト者・市民から校長に嘆願のファクスやはがきが殺到し、結局校長はピアノ伴奏を断念せざるを得なくなりましたが、その後も執拗にピアノ伴奏にこだわり続けました。

  1. その理由

 なぜ信仰上の理由で「君が代」のピアノ伴奏をしたくない教員に無理に弾かせようとするのか? それに対する校長の答えは、信仰の自由は憲法で定められているから認めるが、その信仰を学校という公の場に持ち込んでは困る、という趣旨でした。信仰は個人的な事柄であり家で何を信じようと自由だが、学校は公の場なので個人的な信条はさし控えるべきという論理です。
 この校長の談話には、私たちの国に特有の「公共」を優先しなければならないという国民感情が典型的に表れています。同じ「公共」という言葉を使ってはいても、これは近代市民社会の「公共性」の論理とは似て非なるものです。西欧で成熟した市民社会の「公共」において、主役は「市民」であるのに対し、日本の「公共」での主役は「お上」です。それは国家であり、政府であり、官の通達であり、教育委員会の指導であり、校長の職務命令です。
 「お上」が主役であるなら、個人の自由と主体性は制限されるのが、日本社会の実情です。信仰という人間性の根幹にある価値観を疎外され、人権が侵害されたとしても、それが「私事」であれば軽視されてしまうのです。信仰が制限され軽視されるのは、教会の歴史の常です。だからこそ、私たちは自らを顧みて信仰に立ち続けなければなりませんし、その確認に基づいた生き方が問われてくるのです。

  1. 現代の偶像礼拝

 「日の丸・君が代」は、今なお単なる旗・歌に留まらず、「個」を制限しても「公」への忠誠を強いる機能を持っています。この「公」そして先の「お上」のトップに祭り上げられているのが天皇です。
 戦前の天皇は、憲法でも神聖不可侵とされましたが、天皇への忠誠を誓わせて国民全体を戦争へとまい進させる原動力となったのは、教育勅語です。つまり、教育の現場で個人の自由は制約され、天皇のために命を捨てるよう教えられたのでした。戦後憲法で「象徴天皇制」になったとは言え、この「お上」を優先させるという精神性は、戦前戦後を通じて本質的には変わっていませんし、それは再び教育の現場で明らかになっているのです。
 このように「日の丸・君が代」の強制は、現在の日本の「自由」や「民主主義」の底が浅く、未熟であることを明らかにしています。そればかりでなく、天皇を神聖視する日本の国民感情には偶像性が潜んでいることを、私たちキリスト者は見落としてはなりません。