1. 聖書の「らい病」について知る

  1. 釈義の問題
    聖書の「らい病」は罪の象徴ではない
 釈義に関する一番の問題は、「らい病」の「症状」が罪の象徴と理解されてきたことです。特に「きよめ派」と呼ばれる教会では、きよめの教理と相まって、そのように語られることが多かったと言えます。

  1. 実例
 例えば、一九九二年一〇月に、ハンセン病療養所内の教会、キリスト者が、クリスチャン新聞に意見広告を出しました。そこに「らい病」についての聖書理解の実例が挙げられています。
 一つは、ある教団の夏期学校教案で、その目標は「ナアマンのらい病を通して罪の恐ろしさを知る」となっています。「らい病というのは最初、体のあちらこちらに腫物ができて、やがてそれがひろがり、最後には体が腐っていく恐ろしい病気」、「らい病という病気は、人から人へうつるように、罪も人から人へうつっていきます」、「聖書は、罪人がどのようなものであるかを表すために、らい病人として記しています」と記されています。これは、「らい病」についての誤った知識と、誤った聖書理解によるものと言わざるを得ません。
 また、B・F・バックストンの「レビ記講義」には、「私どもはらい病を忌まわしきものと思うように罪を忌まわしきものと思わねばなりません。またらい病という病気は本当にその性質から起こる病気です」などと書かれています。この一九〇四年の初版がそのまま一九九一年に再刊行されたことが問題視されていますが、聖書理解等の問題に加え、「らい病」についての認識が問題になっていると言えるでしょう。
 これらは、意見広告に実例として挙げられているものです。いずれも福音派、きよめ派と呼ばれる団体のものであり、私たちの教団の出版物にも見受けられます。
 しかし前述のように、何の病気であるか分からない「ツァーラト」と「レプラ」をハンセン病と特定することが誤りであるばかりでなく、ある病気の「症状」を罪の性質に置き換えるような聖書の読み方は慎まなければなりません。福音理解、そして人権感覚が問われています。
 このように、罪と病の関係については、慎重に考える必要があります。病気は、仏教で言う因果応報ではないと言ったり、病める者に対する神のあわれみを強調したりしても、問題の本質は見えて来ないでしょう。