1. ハンセン病について知る

  1. ハンセン病と私たち
    問われる私たちの信仰
 教会は、ハンセン病に対する「配慮」をしてきましたし、進んで差別をしようとするキリスト者はいないでしょう。しかし、私たちが意識をしていなくても、ハンセン病に対する偏見の助長に加担してきたことは、否定できない事実です。
 最後に、なぜそのようなことが起きたのか、私たちはどうあるべきかを考えてみたいと思います。

  1. 関係者の功罪
 まず、ハンセン病の問題に取り組んだ人物に焦点を当てます。
 日本のハンセン病の歴史を語る上で、避けることができない重要な人物は光田健輔(一八七六〜一九六四)です。日本のハンセン病治療において、光田は多くの功績を残したとされ、先に紹介した文化勲章のほか、正一位勲一等瑞宝章など多くの賞を受けました。ハンセン病専用の病院を設立し、療養所の園長を務めました。岡山の長島愛生園は、光田の構想によるものです。
 光田は、晩年にカトリックの洗礼を受けていますが、壮年期には賀川豊彦や斎藤惣一らと日本MTL(Mission to Lepers)の発起人になっています。日本MTLは、日本人キリスト者による「救癩」活動を進めた団体で、先の「無らい県運動」で大きな役割を果たしました。
 生涯をかけたハンセン病の研究と治療、キリスト教精神に基づく「救癩」活動、「らい予防法」改正など患者の絶対隔離や断種の推進が、光田の中では一つになっていました。光田についての評価は分かれるところですが、安易に評価できない複雑さがあります。
 次に取り上げるのは、ホーリネスの関係者です。
 明治維新以降、ハンセン病患者に対する救済活動は、主にカトリックの神父や修道女、聖公会の宣教師らによって行なわれてきましたが、中田重治も早い時期から関心を持っていたようです。東洋宣教会ホーリネス教会においては、ハンセン病を患っていた伝道者、安倍千太郎を中心にした「明星団」が草津など全国数ヶ所に設けられ、活動していました。これは医療活動ではなく、「特殊伝道」と呼ばれ、ハンセン病患者専用のトラクトなどが作られ、伝道活動が行われたようです。
 そして、この時代のホーリネス関係者で特筆すべき人物は、三上千代(一八九一〜一九七八)です。三上は、一九一〇年頃に東洋宣教会聖書学院を卒業し、南伊豆や上諏訪の伝道館に遣わされていた女性伝道者でした。後にハンセン病患者のために奉仕することを決意し、三井慈善病院看護婦養成所、全生病院勤務を経て、聖公会のコンウォール・リー女史と共に、草津でハンセン病患者のために看護婦として働きます。
 それは、先の明星団とは別の医療活動でしたが、草津を巡回した中田重治を迎えるなど、ホーリネスとの交わりは続いていたようです。そして、この頃いわゆる「大正のリバイバル」が起きました。機関紙「きよめの友」には、既に看護婦として働いていた、三上の証しが載っています。リバイバル特有の激しい悔い改めの証しです。
 その後、独立して服部けさ医師と共に鈴蘭病院を開設、すぐに服部医師が亡くなったため、光田健輔の援助によって、二五年に鈴蘭村を開設します。その後、戦争末期の沖縄の療養所で看護婦長として働き、それらの働きが評価され、一九五七年にナイチンゲール賞を受賞しました。
 三上や服部の社会貢献への主体的な意識は、当時の女性の中では相当に進んだものであったことは、この経歴からもうかがい知ることができます。そして三上は、「ライはキリストなり」と言っていたと伝えられていますが、キリストに仕えるようにハンセン病患者のために働いたその働きは、彼女の信仰に支えられていたと言えるでしょう。
 その一方で三上は、日本は天皇を頂く世界に比類なき国であるが、その中にあってハンセン病は、盛装した婦人の顔面の夥しい汚物、文明国の面汚しと言っています。これはハンセン病患者ではなく、病そのものを指している言葉とも読めるのですが、光田と同様、この病をめぐって相反するものが、三上の中で一つになっていることは否めません。
 このような高い志と差別的な感覚という、一見矛盾するような要素が同居しているのは、実は、光田や三上に限ったことではありません。ハンセン病治療のために献身的に働いた人々の中に、多く見受けられます。