1. ハンセン病について知る

  1. 日本でのハンセン病の歴史
    不当な差別の歴史である

  1. 戦後
一九四六年 国内での「プロミン」合成の成功

 敗戦後、新憲法が制定され、患者も選挙権を行使できるようになりました。そして、国内でも石館守三教授がプロミンの合成に成功しました。当初は高価な薬でしたが、四八年には国家予算にも計上されるようになり、ハンセン病の治療は飛躍的に進みました。
 こうして、患者の人間性の回復が社会的に認められるかに見えたのですが、四八年の「優生保護法」では断種・妊娠中絶が引き続き合法とされ、さらに療養所入所者の隔離継続を規定するため、「癩予防法」が改正されることになります。


一九五三年 「らい予防法」改正闘争

 民主化に伴い、療養所入所者たちは、基本的な人権を求めて立ち上がります。全国国立癩療養所患者協議会(現在の全療協)が発足し、隔離政策の見直しを求めました。
 それに対して厚生省は、旧法の強制収容や懲戒規定などを引継ぎ、強化する法案を国会に提出します。反対闘争によって、法案は一時廃案になるものの、再提出された法案は可決され、改正「らい予防法」が成立しました。不当な隔離政策が継続されることになったのです。
 国会審議に大きな影響を及ぼしたのが、専門家の証言でした。中でも、光田健輔ら三名の療養所園長の証言は、改正「らい予防法」成立の根拠となったと言われています。隔離は継続する必要があり、もっと強制的に行えるよう法改正すべきだと主張したからです。感染力の弱さや、プロミンによる治癒を知っている、専門家の意見でした。
 しかし、光田健輔はその働きが評価され、文化勲章を受けます。


一九五六年 ローマ会議

 国際的には、ハンセン病は治る病気であることが認知されていましたが、ハンセン病患者の社会復帰に関する国際会議(ローマ会議)において、そのことが確認されました。そして、差別的な法律の撤廃や、正しい知識の啓蒙などが呼びかけられ、日本の強制隔離や断種・中絶などが非難されました。それでも日本は、「らい予防法」の見直しをせず、隔離政策をとり続けました。


一九五四年 黒髪事件

 熊本市の黒髪小学校のPTA役員らが、療養所付属の保育施設に住む児童の通学に反対する運動を始めました。この保育施設では、両親が療養所にいる子どもが生活をしていましたが、子どもたちはハンセン病ではありませんでした。しかし通学反対派の人々は、ビラを貼り、多くの児童を休校させ、自習させる騒ぎとなりました。通学賛成のPTA役員は脅迫されたり、石を投げつけられたりしました。 これは、ハンセン病に対する偏見を象徴するような事件ですが、その後も日本社会の差別意識は改善されていないことは、二〇〇三年に起きた宿泊拒否事件にも明らかです。


一九六〇年代 軽快退所

 プロミンによって病が治り、「らい予防法」改正闘争によって社会復帰の意欲をもった人々が療養所内でも増え、退所する人も出てきました。それに対して厚生省は、「軽快退所基準」を設けます。それは厳格な基準であって、退所を促すものではありませんでした。
 それでも六〇年代には多くの人が退所します。しかし、ハンセン病の治療は療養所内でしか行われていないため、退所すると治療の継続は困難になり、加えて偏見と差別に満ちた社会での生活は厳しいものでした。次第に再入所を余儀なくされる人が増え、それは退所者の数を上回るようになりました。彼らの社会復帰を支えるものが、日本社会にはなかったということです。


一九九六年 「らい予防法」廃止

 ようやく国は、「らい予防法」を廃止しました。そして、法廃止が遅れたことを謝罪し、一定の援助を始めます。
 しかし元患者らは、長年の強制隔離政策と人権侵害を問い、人権の尊重と差別・偏見の解消を目指して、九八年、熊本地裁に「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」を起こします。翌年には同様の提訴が東京地裁、岡山地裁に対してもなされました。
 そして二〇〇一年五月、熊本地裁は、らい予防法による隔離政策は違憲とし、国家賠償を認める判決を下しました。それに対して、国は控訴せず、責任を認めました。
 これらの出来事は、ハンセン病と行政の関係において、大きな節目でありますが、日本社会の中での偏見や差別とどう向き合うかという課題は、まだ残されています。