1. ハンセン病について知る

  1. 日本でのハンセン病の歴史
    不当な差別の歴史である

  1. 江戸時代以前
 日本におけるハンセン病の歴史は古く、既に「日本書紀」(七二〇年)に「らい」という言葉があります。中世期には、仏教の因果応報の考えに基づき、前世に仏に背いた罰としてふりかかるものと思われていたようです。
 江戸時代には、患者は神社の参道などで物乞いをしていましたが、遺伝病という迷信が定着していたため、隔離されることはありませんでした。それが、「うつる病気」と認識され、隔離が始まったのは開国以降のことです。


  1. 戦前
一八九〇年代

 患者の救済は、主に外国人宣教師によって行われました。御殿場に神山復生園を開設(一八九〇年)したフランス人神父のテスト・ウィード、熊本に回春病院を設立(一八九五年)したイギリス人ハンナ・リデルなどがその代表です。


一九〇七年 「癩(らい)予防ニ関スル件」制定

 患者が、全く治療されずに放浪したり、物乞いをしたりしているのを、欧米人から非難された明治政府は、近代国家としての体面を取繕うため、患者を収容して隔離することにしました。そのために制定された法律がこれです。
 実は、これより十年も前に開かれた「第一回らい学会」で、患者の隔離は特別の場合以外は必要ないとされていました。しかし、その意見は取り入れられずに法律は制定され、それに基づいて、放浪している患者の収容は強制的に行なわれました。およそ人間として扱っているとは思えないような方法がとられました。


一九〇九年 公立療養所の設立

 患者の隔離施設がこの療養所です。青森、東京、大阪、香川、熊本の五ヶ所に作られました。医学的には、伝染力は弱いことは知られていたにもかかわらず、「らい病」は伝染する恐ろしい病気だと宣伝され、患者の収容が行われました。患者がいた家や触った物などは、徹底的に消毒されました。療養所内の患者の生活は、何の自由も認められず、殆ど囚人と同じ扱いでした。逃亡を防ぐため、療養所内でしか通用しない通貨を持たされたり、縞模様の服が支給されたりしました。
 このように、従来の遺伝病という迷信に加え、強い伝染病という誤った情報によって、ハンセン病に対する偏見と差別意識は日本社会に定着していきました。


一九一五年 男性患者への断種手術

 患者を「絶滅」させるための措置として、断種手術が行なわれました。結婚は、断種を条件に許されました。後の「国民優生法」(一九四〇年)では、断種は遺伝性の病気に対して行なわれることとなり、その趣旨は戦後の「優生保護法」(一九四八年)にも引き継がれました。
 しかし、ハンセン病は感染症であって、遺伝性の病気ではありません。それでも、ハンセン病は「優生保護法」でも断種の対象とされ、ハンセン病患者の断種は、一九九九年まで合法的な措置でした。


一九一六年 懲戒検束権

 充分な治療が行なわれず、逆に囚人扱いされた療養所の入所者たちと、職員との間では、しばしば衝突がおきました。それを押さえ込むために、療養所の所長の一存で刑罰を科せられるようにしました。それが、懲戒検束権です。各療養所には、監禁室が設けられました。
 一九三一年には、「国立癩療養所患者懲戒検束規定」が認可され、司法手続きがないまま、所長の一存で監禁室に監禁されるなどしました。


一九三一年 「癩予防法」成立と「無らい県運動」

 先の「癩予防ニ関スル件」が強化改定されたのが、この法律です。放浪する患者だけでなく、全ての患者を隔離の対象としました。
 そのために実施されたのが、「無らい県運動」です。密告、強制検診、山狩りなども行われ、患者の「一掃」がはかられました。この運動の主体となったのは、政財界人による「癩予防協会」のほか、都道府県などの役所、キリスト教を含む宗教団体、財閥などです。つまり官民一体となって、患者の強制収容と隔離が実施されたことになります。
 これほどの運動ですから、患者ばかりでなく、その家族も厳しい差別を受けることになりました。


一九四三年 医療薬「プロミン」の開発

 長く不治の病とされていたハンセン病ですが、アメリカで特効薬が開発されます。新薬「プロミン」です。ハンセン病に絶大な効果があると報告され、日本には戦後入ってきます。