1. 聖書の「らい病」について知る

  1. 釈義の問題
    聖書の「らい病」は罪の象徴ではない
  1. 罪と罰
 「ツァーラト」の釈義について特に問題になるのは、モーセの姉ミリアム(民数記一二・一〇〜一五)、エリシャの弟子ゲハジ(列王紀下五・二七、一五・二)、ユダの王ウジヤ(歴代誌下二六・二〇〜二一)の三人が得た病についてです。
 まずミリアムは、モーセの地位に嫉妬し、モーセの妻が外国人であることを口実としてモーセを非難した結果、「ツァーラト」になりました。また、エリシャの弟子ゲハジは、ナアマンの贈り物を騙し取ったことをエリシャに指摘され、「ツァーラト」になりました。ユダの王ウジヤは、高ぶって自ら香をたこうとして「ツァーラト」になりました。
 いずれもこの病が、罪に対する神の罰と理解されます。しかし、その「症状」が罪の本質を表しているわけではありません。ウジヤ以外のユダの王についても、病が王の罪によると理解される箇所がありますが(歴代下一六・一二、二一・一八、二六・二〇)、そこに描かれているのは、足の病、内臓の病もあり、重い皮膚病だけではありません。
 ですから、とりわけ「らい病」の「症状」だけを取り上げて、罪の恐ろしさを説くことは、ハンセン病についての知識のなさだけではなく、罪の理解、ひいては救いの理解までもが不充分ということになります。
 罪と病の関係については、新約聖書に記されている、盲人であることはだれの罪のためかという、主の弟子たちの問いにも表れています。それに対して主イエスは、《本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼のうえにあらわれるためである》と言われました(ヨハネによる福音書第九章)。
 病に限らず、人間が経験するあらゆる苦難は、神との関係においてその本質的な意味があるのであって、大切なのは神の主権であり、《主よ、信じます》と告白して救われなければならない人間の姿でありましょう。
 ですから、どんな病を得ようと、あるいは健康であったとしても、人間はイエス・キリストによって救われなければならない罪人であることを、忘れてはなりません。そうでなければ、「らい病」は罪の象徴ではないと言ったところで、そこから福音を読み取ることはできませんし、ハンセン病患者の方々に対する配慮も、浅薄なものにとどまるでしょう。