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教会の働きにおいて、特に注意が必要なのは、礼拝説教と、教会学校の礼拝説教と分級でしょう。 「重い皮膚病」に関係する聖書箇所が取り上げられる場合、その聖書テキストのメッセージを説き明かすのが説教ですから、「重い皮膚病」についての説明だけに時間を費やすことは、説教の本来の目的ではありません。しかし、そうであればなおさら「重い皮膚病」やハンセン病についての理解を確認しておく必要があります。持ち前の配慮や人権感覚によって、不注意にこの病について言及することは、思いも寄らない誤解を生じさせ、差別の助長につながります。
これは古い版の口語訳聖書と、初期の新共同訳の新約聖書、古い版の新改訳聖書に当てはまります。教会に備え付けの聖書が古い版の場合も、適切に対応しなければなりません。 改訂された口語訳と新共同訳では、これらの言葉は「重い皮膚病」、新改訳改訂第三版では「ツァラアト」になっていますが、これらの聖書を使用する場合も、「重い皮膚病」や「ツァラアト」を「ハンセン病」と読み替えることは誤りですし、そのように説明してもいけません。
さらに、この前提に立って、聖書の「らい病」は今日では既に怖い病気ではないと説明することも、適切ではありません。これはハンセン病に対する「配慮」に基づく説明なのですが、繰り返しますが聖書の「らい病」はハンセン病ではないのですから、この「配慮」は逆にハンセン病に対する誤解を生じさせます。ハンセン病に対する配慮は、正しくなされるべきです。 また、「らい病」に関する聖書の物語には差別の意図はないので、「らい病」という言葉を使用しても構わないという考えもありますが、不適切です。特に新約聖書の場合、主イエスは「重い皮膚病」に冒された人々を、分け隔てることなくお癒しになりましたから、主イエスにこの病に対する差別の意図がないことは明らかです。しかし私たちがそのメッセージを語る場合、今日の日本社会に対して語るのですから、「らい病」という言葉を使用することは、宣教の言葉として不適当です。 そもそも、聖書のメッセージそのものに差別の意図がなくても、聖書を語る者には、差別意識は宿ります。自分には差別意識がないと思うこと、また自分の差別意識を問おうとしないことは、自己義認にもつながりますし、それに気づかないことが、「らい病」と信仰をめぐる教会の不幸な歴史の原因とも言えます。自分には差別意識がないと思う者にも差別意識は宿ることを、私たちは歴史から学び、自らの言葉を吟味する必要があります。 |