1. 聖書の「らい病」について知る

  1. 適応の問題
    「配慮」が差別を助長する場合がある
 教会の働きにおいて、特に注意が必要なのは、礼拝説教と、教会学校の礼拝説教と分級でしょう。
 「重い皮膚病」に関係する聖書箇所が取り上げられる場合、その聖書テキストのメッセージを説き明かすのが説教ですから、「重い皮膚病」についての説明だけに時間を費やすことは、説教の本来の目的ではありません。しかし、そうであればなおさら「重い皮膚病」やハンセン病についての理解を確認しておく必要があります。持ち前の配慮や人権感覚によって、不注意にこの病について言及することは、思いも寄らない誤解を生じさせ、差別の助長につながります。

  1. 読み替えの問題
 まず注意すべきは、説教などを語る場合の「読み替え」の問題です。古い聖書を使用している場合、「らい病」と記されている部分を、「これは今日のハンセン病」と読み替えるのは誤りです。「らい」という言葉が差別的に用いられてきたため、今日この病を「ハンセン病」と呼ぶのが一般的です。教会でも、差別的な言葉であれば用いない方がよいと判断し、聖書の「らい病」を「ハンセン病」と読み替えてきました。しかし、何の病か分からないものを「ハンセン病」と読み替えることは、何の配慮にもなっていませんし、むしろ不適当です。
 これは古い版の口語訳聖書と、初期の新共同訳の新約聖書、古い版の新改訳聖書に当てはまります。教会に備え付けの聖書が古い版の場合も、適切に対応しなければなりません。
 改訂された口語訳と新共同訳では、これらの言葉は「重い皮膚病」、新改訳改訂第三版では「ツァラアト」になっていますが、これらの聖書を使用する場合も、「重い皮膚病」や「ツァラアト」を「ハンセン病」と読み替えることは誤りですし、そのように説明してもいけません。

  1. 内容について
 聖書の時代の「重い皮膚病」に冒された人の社会的立場を説明する場合、それを今日のハンセン病と関係付けるのは正しくありません。例えば、レビ記第一三章に記されているように、この病は《汚れ》とされたことや、自らを《汚れた者、汚れた者》と呼ばわらなければならなかったことなど、「重い皮膚病」に冒された人が、社会的に過酷な立場に置かれたことは確かです。しかし、それを今日のハンセン病と結び付ける根拠はなく、ただハンセン病に対する偏見を助長することになります。
 さらに、この前提に立って、聖書の「らい病」は今日では既に怖い病気ではないと説明することも、適切ではありません。これはハンセン病に対する「配慮」に基づく説明なのですが、繰り返しますが聖書の「らい病」はハンセン病ではないのですから、この「配慮」は逆にハンセン病に対する誤解を生じさせます。ハンセン病に対する配慮は、正しくなされるべきです。
 また、「らい病」に関する聖書の物語には差別の意図はないので、「らい病」という言葉を使用しても構わないという考えもありますが、不適切です。特に新約聖書の場合、主イエスは「重い皮膚病」に冒された人々を、分け隔てることなくお癒しになりましたから、主イエスにこの病に対する差別の意図がないことは明らかです。しかし私たちがそのメッセージを語る場合、今日の日本社会に対して語るのですから、「らい病」という言葉を使用することは、宣教の言葉として不適当です。
 そもそも、聖書のメッセージそのものに差別の意図がなくても、聖書を語る者には、差別意識は宿ります。自分には差別意識がないと思うこと、また自分の差別意識を問おうとしないことは、自己義認にもつながりますし、それに気づかないことが、「らい病」と信仰をめぐる教会の不幸な歴史の原因とも言えます。自分には差別意識がないと思う者にも差別意識は宿ることを、私たちは歴史から学び、自らの言葉を吟味する必要があります。