1. ハンセン病について知る

  1. ハンセン病と私たち
    問われる私たちの信仰
  1. 差別の構図
 このことを解明する手がかりとなるのは、「ナショナリズム」です。
 一九〇七年の「癩予防に関する件」が、らい学会の隔離の必要なしという意見を無視してまで成立したのは、それまで救済活動が外国人宣教師に負っていることを、日本の恥とする考えが働いたとも言われています。服部と三上が、リーから独立したのも、日本人による「救癩」活動という意識によるものでした。
 「癩予防法」が制定され、「無らい県運動」が盛んになった一九三〇年代は、満州事変からアジア・太平洋戦争へと突き進んだこの時代です。「日本民族」の優位性を説いて、アジア諸国への侵略を続けてきた日本にとって、この時期はナショナリズムのピークとも言える時期です。つまり日本のナショナリズムは、アジア諸国に対しては自らの優位性を誇示しましたが、国内の異質なものや弱者は差別し排除したのです。この時期に「癩予防法」が成立し、ハンセン病患者の強制隔離が徹底されたのは、「民族を浄化」するために、ハンセン病患者を「絶滅」させることがその本来の目的でした。
 日本MTLも、「救癩運動は愛国運動」と言って、祖国浄化を訴えました。旧約聖書のレビ記などに記されている「らい病」の隔離を引き合いに出し、ハンセン病の隔離政策を聖書によって根拠づけたり、患者に対する理解、同情を愛と結びつけたりしました。つまり、ナショナリズムによって裏打ちされていた「無らい県運動」は、キリスト者にとっては信仰によって動機付けられた運動であったのです。
 このことを可能にしたのは、天皇制です。皇族がいくつもの慈善事業に関係していることは知られていますが、「救癩活動」はその関係が深かったと言えます。東京東村山市にある療養所「多磨全生園」内にある資料館名も、「高松宮記念ハンセン病資料館」です。
 特に、「つれづれの友となりてもなぐさめよ ゆくことかたきわれにかわりて」と歌った大正天皇妃・貞明皇后は、救癩事業のために何度も「下賜金」を与えています。その「皇恩、御仁慈」に応えることが、救済活動の大きな動機でありました。その要素は、今日も残っています。
 ここで問題なのは、貞明皇后の真意や皇族との関係云々ではなく、「皇恩」を掲げてアジアへの侵略戦争が美化されたのとよく似て、「皇恩」を掲げることで、ハンセン病患者の強制隔離など人権侵害が正当化されてきたことです。ハンセン病「絶滅」は、「民族浄化」のために必要な手段とされてきましたし、キリスト者の間では、皇后の愛の精神を具現するのがキリスト者の隣人愛であるかのように語られました。
 戦前と戦後では、天皇制もナショナリズムも大きく異なっています。それでも、ハンセン病に対する差別・偏見が、日本社会ばかりでなく、教会の中で解決されてこなかったのはなぜでしょうか。天皇制社会に生きる、日本の教会の自覚に問題があったのではないでしょうか。
 天皇制とは、単なるイデオロギーのことではなく、無意識の内にも差別感覚を内包し、教会の福音理解にも影響を及ぼしている、日本社会の構造的な精神作用です。これが、「日本ホーリネス教団の戦争責任に関する私たちの告白」で問題としている、教会の課題です。