1. いったい、どういうことが現実に起きているのか

  1. 公立学校から奪われた自由

 「国旗・国歌法」の影響が最も直接的に表れたのは、予想どおり公立学校です。法案の審議過程で政府は、「日の丸・君が代を児童、生徒には強制しない」と言っていました。
 しかし現実には、児童・生徒を指導する立場の教員たちに強い圧力をかけて、全員が大きな声で「君が代」が歌えるように指導することなどを強要し、従わない教師を教育委員会が「再教育」したり、処分したりといった事例が各地で頻発しています。ここでは、最も典型的な東京の例を紹介します。


  1. 教職員への圧力

 二〇〇三年一〇月二三日、東京都教育委員会は全都立高校と都立盲・ろう・養護学校の校長あてに「入学式・卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について」と題した通達を出しました。同通達は都立校の卒業式・入学式などにおいて、舞台壇上正面に向かって左に国旗、右に都旗を掲示すること、「国歌斉唱」の発声とともに起立、特に教職員は指定の席で国旗に向かって(傍点筆者)起立し、音楽科教員のピアノ伴奏で国歌を斉唱すること、舞台正面に演台を置き卒業証書を授与すること、式典会場は児童・生徒が正面を向いて着席するように設営することなどを事細かに指示したものです。
 その結果、現に二〇〇四年以降、都立高校ではほぼ通達どおりの卒業式・入学式が実施されています。そして、実際の運用では通達をさらに徹底する形が取られました。教職員は座席を指定され、当日は都教委職員が配られた座席表を手に、国歌斉唱時に誰が起立しないか、誰が歌わないかを監視しました。
 起立しない教職員は式典後、都教委職員に囲まれ、「起立しませんでしたね」「都教委として現認しました」などと詰問されました。中には処分を前提とするかのような恫喝ととれる発言もあったといいいます。さらに後日、不起立者は都教委による事情聴取に呼び出され、「研修」の名目ですが、「日の丸・君が代」に対する考え方を変えるよう迫られました。
 規則や秩序を守ることが大切なのは言うまでもないことですが、それが監視され強制されて実現したとしても、どんな意味があるのでしょうか。たとえば、礼拝や職制など教会の秩序も、規則や監視によるものではありません。キリスト者の自由で主体的な信仰によって守られていることに価値があると、私たちは知っています。

  1. 人間の尊厳の軽視

 こうした画一化された管理・監視体制は、養護学校でも例外なく行われました。体に障碍(しょうがい)を持つ生徒たちに配慮して、これまで養護学校の卒業式・入学式は平面で行われるのが通例でした。卒業生と在校生が対面して座り互いの顔が見えるこの「フロア形式」は、普通校でも生徒や保護者から人気が高く、かつては多くの学校で採用されていました。
 特に体の不自由な生徒が学ぶ養護学校においては、単なる好みの問題ではなく、生徒の人間としての尊厳にかかわる選択でもあります。フロア形式の卒業式では、生徒たちが自力で松葉杖や車椅子を繰り、卒業証書を受け取りに出てきます。それがどんなに障碍を持つ生徒や保護者たちにとって誇らしい、学校生活の成果を喜び祝うのにふさわしい場だったかと、養護学校の教師たちは口をそろえます。
 ところが都教委通達は画一的に、壇上正面に国旗・都旗を掲げさせ、わざわざそのためにスロープを造らせてまで、生徒を介助なしでは上れない壇上に上げて卒業証書を授与する形式を強いました。画一化された管理・監視体制は、生徒たちが自分の力で車椅子や松葉杖を使い、証書を受け取りに進み出るという、尊厳ある美風さえ損なってしまっているのです。
 キリストによって真の人間性が回復され、隣人愛に生きようとする私たちキリスト者にとって、人間の尊厳の軽視は看過できないことです。

  1. 戦前への回帰現象?

 さて、このようにまでして生徒に守らせようとする価値とはいったい何でしょうか。国や学校を愛することは良いとしても、それを画一的な形式で押し付けるようなやり方は、「教育」とは言えません。今日の学校の現実は、戦前の思想統制・監視社会に逆戻りしてしまったかのようです。
 今日、公立学校の入学式・卒業式で、校長や来賓が登壇に際し、壇上正面に掲げられた日章旗に向かって深々と拝礼する光景は普通のことになっています。卒業生や在校生はおろか保護者や教職員、来賓にまでお尻を向け、誰もいない演台越しにひたすら「旗」に向かって平身低頭しています。これは、戦前の学校が天皇の肖像である「御真影」を掲げていたものが「日の丸」に代わっただけで、内容的には変わらないものです。
 私たちは思い起こさなければなりません。戦時下の教会において日の丸を掲げ君が代を斉唱し、キリスト者が神社参拝をすることは普通のことだったのです。その結果、「イエスが主である」という信仰告白と隣人愛に生きることができなかったことを、私たちの教団は悔い改めました。ですから、私たちは今日の教育現場で起きていることに無関心であってはならないのです。