1. いったい何が問題なのか

  1. 教会の受け止め方に関して

  1. 大方の反応

 さて、これほどの問題点がありながらも、教会の関心と反応は今ひとつでした。その主な理由はだいたい次のようです。
  (1) 法制化で一応の決着がつき、混乱がなくなるのは良い。
  (2) キリスト者も、法律には従うべきである。
  (3) 「日の丸、君が代」には愛着を感じるし、特に抵抗はない。
  (4) 「日の丸、君が代」に反対して社会を敵にまわすのは良くない。
  (5) 「日の丸、君が代」に反対するよりは伝道すべきである。
 これらの中には、理解出来なくもない理由があるのですが、しかし、よく考えてみなければなりません。

  1. 歴史が語ること

 まず、(1)の「一応の決着」です。これは、行政府が決着させたのであって、問題の根本が解決しているわけではありません。
 戦時下、神社は宗教ではないとの主張が、キリスト教界に多くの混乱を招きました。教会の「神社は宗教なのか」との問いに、文部省は「愛国心と忠誠とを現はすものに外ならず」と答えました。「決着」させたのです。その結果、教会は積極的に神社参拝をするという、偶像礼拝の罪に陥り、アジア諸国の教会にも強要しました。
 これは、一応の「決着」がついたとしても、その後の教会の主体性が大切であることを示しています。
 (2)の「法律に従うべき」は、これはある意味で当然のことです。
 しかし戦前に次のようなことがありました。政府は宗教団体を管理するための宗教団体法案を国会に提出しました。それに対してキリスト教界は大反対しました。けれども戦争が泥沼化する中で教会は口をつぐみ、宗教団体法は成立します。そして、教会はこの法律に従って、国家権力の言いなりになり、戦争協力の道へと突き進みました。
 究極的には、私たちは国の法律よりは神の言に従います。しかし、現段階でも現「国旗・国歌法」には強制力はなく、諸法律を規定する「憲法」で、信教の自由は保障されていると主張することが出来ます。これは全く合法的なことです。

  1. 信仰への問いかけ

 次に、(3)の「日の丸、君が代への愛着」ですが、愛着を感じること自体は何も悪いことではありませんし、否定されることでもありません。しかし、日の丸に対する拝礼や、天皇賛美の歌を歌うことは、唯一の神を信じる私たちの信仰とは、どうしても相容れないものです。「愛着」という感情によって、私たちの信仰を曖昧にしてはなりません。
 (4)の社会を「敵にまわしたくない」という心境は、キリスト者が少ない日本社会では切実な思いです。けれども唯一の神を信じ、「イエスは主である」と告白する信仰は、基本的にこの世とは相容れないものです。しかし、その「世」に対して私たちは伝道しているのです。 もちろん、教会はいたずらに社会と対立はしません。私たちの福音を宣べ伝えたいという思いと、「国旗、国歌」の強制に抗することは、国民の自由のための闘いであるという思いが理解されるためには、地道で真実な歩みが求められます。
 このような教会の態度は、社会のためにもなることであり、「日の丸、君が代」について意見を持っている一般の人々と共に、この問題に対応することが出来るようになります。それはさらに、この世界に主の御旨を知らせることになるのです。
 最後に(5)の、教会は日の丸、君が代の強制に反対しているよりも「伝道すべき」との意見です。これはもっともらしく聞こえて、実はまことに誠意に欠ける意見です。
 今回の「国旗・国歌」の法制化が、これだけ教会の本質的な在り方を問うているにもかかわらず、それに目を閉じて、伝道だけが出来るわけがありません。さらに、実際にこの問題で苦しみ悩んでいる人々が、私たちの教会の中にもいることに目を閉じることは出来ません。悩む人々と共に歩むのがキリスト者の在り方であるはずです。
 このように「日の丸、君が代」は、私たちにキリスト者として、また市民としての歩みについての大きな問いかけとなっています。私たちは、これを避けて通って良いのでしょうか。