1. いったい私たちに何ができるのか、どう歩むべきか

  1. 私たちの教団の歩みをめぐって

 このような問題意識を背景として、私たちの教団の見解が、「『日の丸、君が代』と私たちの教団」として、教団委員会名で公表されました。ここにその全文を掲載します。



  1. 「日の丸、君が代」と私たちの教団 (教団の見解)



 日本ホーリネス教団に連なる皆さんへ

「日の丸、君が代」と、私たちの教団


 『みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように』。
 このように共に祈る私たちは今、「日の丸」と「君が代」の扱いをめぐって、信仰者としての在り方を問われています。
 「日の丸、君が代」に対する感情や関心は人それぞれでしょうが、共に考え、祈っていただきたいのです。

 「日の丸、君が代」の内容とその歴史的意味、さらにこれらを国旗、国歌として法制化した一連の動向は、歴史に学ぶことをせず、主権在民や基本的人権の尊重という憲法の理念にも反するものです。私たちは、法の下に生きるものとして、この事態を憂慮します。
 特に、思想、信条の自由さえ制約されかねない公立学校の教職員と生徒、教会学校の生徒と親、教会員の子どもたちをはじめ、私立学校関係者や公務員、また教会の地域との関係において、信教の自由が脅かされないか懸念しています。
 そして何よりも、「日の丸」への拝礼や、天皇賛美である「君が代」を歌うことは、唯一の神を信ずるキリスト者として、受け入れ難いことです。

 ですから、私たちは「日の丸、君が代」が「強制されること」に反対します。それはキリスト者の信仰の良心に従うものであり、市民としての自由と権利が真実なものとなることを願うからです。そのためには、憲法第一九条の「思想及び良心の自由」の理念に基づいて、「国旗掲揚、国歌斉唱」を拒否することも、私たちに与えられている大切な権利であり、選択肢の一つと考えます。
 しかし私たちは、「日の丸、君が代」の拒否を「強制」しません。かつて戦時下の教会が、「日の丸」を掲げ、「君が代」を歌い、神格化された天皇を崇敬するなどして、偶像礼拝に墜ちたことを、私たちは悔い改めました。神の赦しの恵みのうちを歩む私たちの願いは、ただ「イエスは主」であることが明らかにされることです。

 そのために、日本ホーリネス教団に連なる一人一人が、明らかな信仰の良心に従って考え、判断し、行動し、みこころを選び取っていただきたいと願っています。各教会においても、これを自らの課題として、祈っていただきたいのです。
 多様な状況の中で、判断に悩むこともあると思いますが、どのような判断をされても、信仰によって歩むものと主は共にいて下さいますし、これからも私たちは、共に支え合っていきます。同じ教団に連なる信仰の仲間の祈りがあることを忘れないでいただきたいのです。
主の平和を祈ります。

一九九九年一二月一四日
日本ホーリネス教団 教団委員会