1. いったい何が問題なのか

 この問題については、問題そのものを感じない人も多いようです。そこで、そもそも何が問題であるのかを考えてみましょう。


  1. 「日の丸、君が代」の意味について

  1. 一般的な事柄

 「日の丸」と「君が代」を一緒に扱ってしまうことにも多少無理がありますし、それぞれの起源や意味について、ここでは詳しく述べることは出来ませんが、一般的に指摘される問題点には次のようなものがあります。
 まず、諸説ある日の丸の起源の中には、天照大神に由来するというものがあり、今日の日の丸への拝礼とも相まって、宗教的色彩が濃いことが挙げられます。それは君が代についても同様で、戦時中には現人神である天皇を賛美する歌として歌われたものですから、「君」をどう解釈しようと宗教的色彩は拭いきれません。
 また特に問題視されるのは、その歴史的な意味です。日の丸も君が代も、かつての戦争中の戦意高揚の象徴であり、君が代の場合、現人神である天皇をたたえることによって、日本国民を精神的に統合するという機能を持ちました。それは、アジアの人々にとっては日本の侵略戦争の象徴であり、その不信感が今日なお拭いきれていないことは、ご存知の通りです。
 さらに、今日の憲法の理念にそぐわないという点です。天皇を賛美する内容の君が代の歌詞は、天皇に主権があることを認めるものであって、主権在民という憲法の理念に反します。また、国旗、国歌の法制化によって懸念される、「日の丸、君が代」の押し付けは、思想、信条の自由を脅かすものであって、憲法の基本的人権や、子どもの権利条約にも反することです。

  1. キリスト者の歩みに関して

 次に、キリスト者にとっての問題点ですが、先にふれたように、日の丸、君が代は宗教性を帯びたものですから、キリスト者にとって日の丸への拝礼や、君が代の斉唱は、偶像礼拝につながるものです。
 また、思想、信条の自由への脅威は、信教の自由にとっても脅威です。学習指導要領で義務付けられているものが法制化されたことで、それらが強制力を一段と強めているのです。
 さらに、かつての侵略戦争の象徴であったものを、公式の謝罪も補償もしないままに国旗、国歌とすることは、悔い改めのない精神と国際感覚の欠如を示すものです。戦争責任告白を公にした教会にとって、日の丸と君が代を受け入れることは、自らの信仰に反することであり、アジアの人々との共生にとって大きな妨げになることは確かなことです。