1. いったい私たちに何ができるのか、どう歩むべきか

  1. これまでの枠の中での具体的な対応

 けれども、このような問題への関心と関わりを意識的に避けてきた私たちの教団にとって、具体的な対応といってもどのようにして良いか分からない部分が多くあり、また一頃のいわゆる社会派と呼ばれた人々のような行動が求められるのかという、誤解と不安も大きいようです。
 しかし、何度も繰り返すようですが、私たちの信仰の在り方が問われているのです。それに対して沈黙することはキリスト者として真実ではありません。さらに、私たちのこれまでの信仰が、社会と全く遊離したものでないとすれば、私たちに出来ることも多くあるはずです。



  1. 祈り

 その第一は祈りです。まず、国のために祈ることです。為政者のために、私たちの国が元来た道に戻らないように、信仰の自由が守られ、子どもたちが偶像礼拝から守られるように等々。これらのことのために祈るのは、私たちの大切な務めです。私たちの祈りが無責任な願い事でなく、真実なものになるためには、現在の状況についても良く知らなければなりません。
 次に自分たちのために祈ることです。社会の動きがどのようであっても、神の御心に目を留め続けることが出来るように、神の御心を選び取っていくことが出来るように、明らかな信仰の良心のもとに歩むことが出来るように、信仰的な妥協をすることがないように等々です。

  1. あかし人として生きる

 私たちに出来る第二のことは、「あかし」です。私たちが「イエスは主である」と明確に告白することが一番のあかしです。さらに、この問題によって、教会が人の自由や尊厳、国の在り方を真剣に考えていること、教会が隣人と国を真実に愛して歩んでいることを示すことが出来るのではないでしょうか。ホーリスティック(包括的)な福音理解と宣教ということについても、この問題は私たちに大きな課題を投げかけていると思います。
 そして、私たちが日本社会に生きている以上、この世の動向と無関係な伝道をすることは出来ません。教会が日の丸や君が代の問題について、ある意見を持ってそれを表明することが、特定のイデオロギーやキリスト教の偏狭な考えに基づくもの、あるいはキリスト者の権利のためのものとしか受け止められないとすれば、私たちの伝道の在り方を問わねばならないでしょう。