1. いったい私たちに何ができるのか、どう歩むべきか

  1. 私たちの教団の歩みをめぐって

  1. 教団の見解の概要

 読んでお分かりのように、この文は四つの段から成ります。
 第一の部分は、「主の祈り」が引用されているように、この問題は私たちのこれまでの信仰に対する挑戦であって、多くの人に共に考えてもらいたいという呼びかけです。
 第二の部分は、「日の丸、君が代」をめぐる現状とその問題点です。これらについての詳細は、このパンフレットでより理解していただけると思います。
 第三の部分は、対応です。既に「国旗・国歌法」として成立していますから、法制化への反対ではなく、「強制されること」に反対することを明確にしています。市民として反対する根拠として憲法第一九条を挙げ、具体的な対応について述べています。さらにキリスト者として反対する根拠として、「イエスは主である」という教会の信仰告白と、戦争責任告白の趣旨とが挙げられています。
 第四の部分は、この問題への対応は具体的であること、教会が共に負い、支えあっていくべき課題であると結ばれます。

  1. 教団の見解の趣旨と特徴

   (1)市民の権利、キリスト者の権利
 「日の丸、君が代」に対する教団の見解の一つの特徴は、いわゆる市民の権利と、信仰者の権利を同じ軸の上に見据えていることです。信仰を生活の場で実践しようと努めていた割に、信仰を心の問題と捉えたために、信仰が現実社会から遊離しているとの反省が反映していると言えるでしょう。また、最近よく言われるホーリスティック(包括的)な福音理解とも関係のあることです。
 信仰を心の問題とだけ理解することは、真実な信仰生活に至らないばかりか、信仰が変質することもあり得ると、既に述べてきました。戦争責任告白の趣旨もそこにありました。ですから、市民の権利をキリスト者として考えることは重要なことであり、またこのような事柄に慣れていない私たちにとっては、良い学びの機会ともなります。
 また、表面だった反対をしていなくても、「強制」されることに疑問を感じている人が多くいることは、新聞等の投書欄などからも窺い知ることが出来ます。教会がこの問題に対する態度を明確にすることは、そのような人々に共感を与えることになるのではないでしょうか。

   (2)子どもの権利
 さて市民の権利と言いましたが、特に公立学校の教職員と子どもの人権が問題となってきます。その中でも、このような問題に主体的に関わることが難しい子どもについて考える大人の責任は大きいと思います。
 しかし、「子どもの人権などと言っているから、子どもは自分勝手になり、学級崩壊のような事態に陥るのだ」という批判があります。確かに明確なヴィジョンもなく子どもの自主性を尊重することなどには問題があるでしょう。けれども本当は子どもの人権についての考えが未熟なのではないでしょうか。
 子どもの人権とは、私たち信仰者の言葉に言い換えれば、神に造られた人格であり個性です。子どもの個性を理解も出来ずに、大人の理屈が当てはめられる、まして公権力が介入するなど本末転倒ですが、しかし「国旗・国歌」の法制化などは、まさにそのような思いの表れとしか思えません。学習指導要領で、子どもの個性と自主性をうたっている文部省自体も自己矛盾しています。子どもの信仰と生活に責任を持つ教会の責任は重大です。
 ところが「子どものため」というかけ声は、もっともらしく聞こえて、実は親や教師のエゴの反映に過ぎないことがあります。私たち教会のこの問題への取り組みも、このような子どもを「だし」にしたものであってはなりません。教会の課題として、自分自身の問題として、今後も関心を持ち続けなければなりません。