1. いったい、どういうことが現実に起きているのか

  1. 教会の課題

 戦前・戦中、日本の教会の多くは「国民儀礼」と称して、毎日曜日の礼拝式次第の冒頭に「国歌斉唱」や「宮城遥拝」をしてきました。法律で強制されたからではなく、「日本人として、日本の教会として当たり前」の儀礼として、教会が自発的に時代の社会の要請する空気に従った結果でした。父・子・聖霊の唯一の神だけを主とするはずのキリスト教会の礼拝において、主以外のもの=天皇=にほめうたを歌い、拝礼したのです。
 今すぐに現在の教会が同じ過ちを犯すことは考えにくいとしても、世論の大半が「日本人として国歌斉唱は当たり前」と考えるような地方では、教会が「変わり者の少数派」に甘んじる覚悟を要するかもしれません。それでは地域に伝道できない――と考え始めるとき、かつてと同じような自主規制に向かう可能性がないとは言えませんし、何よりも無意識のうちにも信仰の「質」そのものが変質してしまうきっかけになりかねないのです。
 キリストだけを従うべき主とするのか、国家や天皇に従うことを優先するのか――問題の本質は、教会がだれを教会の主と告白するかにあります。「イエスは主である」という信仰の告白は、言葉だけではなく、教会とキリスト者の行動において問われるでしょう。