現代の「踏み絵」?
「日の丸、君が代」と私たち |
しかし、教団委員会から公表された見解は、これまでの私たちの信仰の枠組みから、一歩前進することを促すものです。
何を考え、何を信じ、何に従うか――という「思想・良心・信教の自由」は、他のどのような自由にも優先する基本的人権と言われます。それは他のどのような法律があったとしても、それに優先して守られるべき人間にとって普遍的な権利であることが、日本国憲法(*1)でも国連人権規約(*2)でもうたわれています。たとえ国家でも、この自由を侵すことは許されません。従って、キリスト者は基本的には自分の置かれている国の法律に従うべきですが、法律の実際上の運用が基本的人権をないがしろにすることは、あってはならないことなのです。 ですから、「日の丸」が国旗、「君が代」が国歌と法律で定められても、国やその機関が外交や公式の席、文書などで使用する旗と歌が正式に決まったということであって、「日本人ならだれもがその旗に敬礼し、その歌を歌わなければいけない」というものではないのです。この法律を楯にとって「従いたくないなら日本人をやめて外国へ行けばいい」などというのは、基本的人権を侵す暴言であり、容認できません。法律で決まっていても、「私はこの歌を歌いたくない」「私はこの旗を使いたくない」という自由は、より上位法である憲法と国連人権規約によって保障されていると考えられます。この「良心的不服従」の原則は、全体主義国家や強権国家でない民主的な法治国家であれば、守るのが当然の普遍的な価値です。 もちろん、教団の見解にも「私たちは、『日の丸、君が代』の拒否を『強制』しません」とあるように、「日の丸、君が代」への賛成の気持ちも、明らかな信仰の良心によるものであれば尊重されるべきであると考えます。しかし、選択肢が「賛成」しかないとすれば、それは既に「強制」になっていることに留意しなければなりません。 よくアメリカなど外国では国旗が大切にされ、国歌が歌われているではないか、と言われます。諸外国の中でも、法律で国旗・国家を定めているかどうかは様々ですが、いずれにしても民主国家であれば、それらを受け入れない個人の自由も確保することは当然の権利とみなされます。ましてや、学校教育の中ですべての児童・生徒に従わせるよう教師が強要されることなど、あり得ない国権の乱用というほかありません。 基本的な人権とは、私たち信仰者にとっては、「神は自分のかたちに人を創造された」という聖書の人間観に基づくものであって、「思想・良心・信教の自由」を何ものも侵してはならないと考える基盤があります。ここに、その権利を国家と言えども侵してはならないという、明確な根拠があります。
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